民謡「貝がら節」の古里・気高
浜村温泉は、遠く1501(文亀元)年の開湯と伝えられます。古書には「天正年間(1573-92)鹿野城主亀井氏の臣、宍戸豊後白鷺を射て之を傷つく、鷺、沢畔に留まりて去らず、往きて検するに温泉湧出せり」と記され、別名「鷺の湯」とも呼ばれます。
また、かつてこの地を訪れた小泉八雲が「不思議なほど渚に近い温泉」と表現したように海にも近く、温泉街から10分ほど歩けば、西因幡県立自然公園に指定されている白砂の海岸線に出ます。この海岸は、民謡「貝がら節」の舞台でもあります。
「何の因果で 貝がらこぎなろうた カワイヤノー カワイヤノー 色は黒うなる 身はやせる」
明治の初め頃、浜村の沖合い東西70kmにわたって帆立貝の大発生をみました。漁師たちはジョレンに網をつけ、底引き船で乗り出しました。「貝がら節」はその苦しい作業を唄った労働歌で、哀調と素朴さに満ちたメロディによって、多くの人々に共感されています。
浜村温泉を今日のように有名にしたのは、あるいは多少この民謡の力に与っているかもしれません。
ところで、浜村駅から山陰線で西へ1駅行くと、因州和紙の里・青谷町に着きます。因州和紙の起源は不明ですが、江戸初期に「美濃紙」の製法が伝来したとされており、伝承では次のような逸話が残っています。1628(寛永5)年、美濃国から全国を巡錫していた旅僧が、青谷にさしかかった時、にわかに病魔に襲われ、道のほとりに倒れてしまいました。純朴な村人たちは、真心からの手厚い看護を施し、間もなく重い病気も全快しました。旅僧はその謝恩のしるしとして、美濃に伝わる紙漉き法を伝授して再び旅立ちました。
この伝承には、他にもバリエーションがあるらしいのですが、現在につながる因州和紙が、この頃から作り始められたのは確かなようで、その後、鳥取藩の御用紙として発展。今では鳥取を代表的する伝統工芸となり、特に特に書道や書画・水墨画に用いる画仙紙(因州画仙紙)では、全国生産額の6割強を占めています。
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