一度はくぐってみたい紅葉の絶景トンネル
ここはもともと、大山巌元帥の墓所へ向かう参道で、1916(大正5)年から翌17年にかけて整備され、参道の両脇にはさまざまな樹木が植えられました。墓所に近い100mにはヒノキ、それ以外の200mには桜とイロハカエデが交互に植えられたそうです。
しかし、桜は枯れて伐採されてしまい、200mの参道にはイロハカエデだけが残りました。また、1955(昭和30)年には、イロハカエデの参道が、大山家から西那須野町(現・那須塩原市)へ寄贈され、今は大山公園となって、市民に親しまれています。
那須塩原市は、1200年以上の歴史を持ち多くの源泉を抱える塩原温泉郷や、古くからの湯治場・板室温泉、秘境・三斗小屋温泉などがあって、何と言っても温泉で有名です。私も子どもの頃、宇都宮の親戚に連れられ、塩原温泉に行ったことがあり、塩原と聞くと真っ先に温泉を思い浮かべてしまいます。その一方、江戸時代以前は、「手にすくう水も無し」とうたわれるなど、那須野が原は不毛の地扱いをされていました。
しかし、明治時代に入ると、政府の殖産興業政策により那須疏水が整備され、貴族・華族が一斉に開拓を推し進めました。その結果、不毛の地と言われた那須野が原は急速に発展を遂げました。市内にはその名残として、那須に入植したり農場を拝領したりした明治の宰相、要人の名を冠した地名が多く残り、現存する当時の貴族・華族の別邸は日本遺産に登録されています。
その一つ松方別邸は、当時の総理大臣松方正義が1903(明治36)年に建てた洋風の別荘です。松方は、那須野が原開拓に熱心に取り組み、千本松農場(現千本松牧場)を造り、欧米風の大農法をここで実践しました。また、第1次山縣内閣と第1次松方内閣で外務大臣を務め、青木農場を開設した青木周蔵の別邸も現存。こちらは県に寄贈され、現在は道の駅「明治の森黒磯」の一施設として一般開放されています。
大山元帥も、那須開拓に乗り出した、そうした明治の要人の一人です。江戸末期の1842(天保13)年、薩摩藩士・大山綱昌の次男として生まれました。従兄弟に西郷隆盛・従道兄弟がおり、特に従道とは1歳違いだったこともあり、幼い頃から仲が良く、親戚以上の盟友関係にあったとされます。一方、西南戦争では、政府軍の指揮官として、西郷隆盛を相手に戦っています。
ところで、よく知られている西郷隆盛の肖像がですが、生前の写真や肖像画が残っていなかったため、これを描いたイタリア人画家エドアルド・キヨッソーネは、顔の上半分を西郷従道、下半分を大山巌をモデルにして描いたと言われますが、後に上野の西郷隆盛像制作の際には、この肖像画がベースになっています。
さて、大山巌と西郷従道の従兄弟コンビも共同で、1881年に「加治屋開墾場」という農場を始めます。加治屋というのは、二人の生まれ故郷・鹿児島市加治屋からとりました。
道の駅「明治の森黒磯」にある旧青木家那須別邸 |
ただ、この二人、1885(明治18)年の内閣制発足時に、大山巌が初代陸軍大臣、西郷従道が初代海軍大臣を務めるなど、軍隊の2トップであり、明治政府の重職に就いていました。そのため、二人が直接、那須の開墾事業に携わることは出来ず、事業そのものは那須開墾社に協力を要請。那須開墾社側も、大物二人からの協力依頼とあって二つ返事で快諾し、以後、那須野が原開拓をけん引していくことになりました。
子どもの頃、宇都宮の親戚に連れられて行ったような記憶がある塩原温泉の露天風呂 |
大山巌が亡くなったのは、1916年12月10日のことで、遺言により生前こよなく愛した那須に葬られました。ちなみに、大山の死は夏目漱石の死の翌日のことで、新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を漱石に割いたため、翌日の大山の訃報はかなり地味なものでした。その一方、大山の国葬には駐日ロシア大使が参列すると共に、これとは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べました。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の2人だけだったそうです。
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