歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄

御船山楽園

この2日、大村、東彼杵と長崎街道に触れながら記事を書いてきました。順番でいくと、今日は嬉野になるのですが、嬉野については1年以上前に記事(エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉)を書いてしまったので、今回は嬉野はパスして、次の武雄についてになります。計画性のないブログなので、こういう時に困ってしまいます・・・。

さて当初、嬉野宿から小倉へ向かう長崎街道は、多良街道の起点で、有明海の干満差を利用した河港都市でもあった塩田宿(嬉野市)を経由する南回りのルートでした。しかし、塩田川は度々氾濫し、往来に支障を来すことが多かったため、1705(宝永2)年に嬉野から柄崎宿(武雄市)を経由する北回りルートがつくられました。

武雄は、嬉野と同様に、古くからの温泉として知られ、いずれも神功皇后にまつわる伝説があり、また奈良時代の『肥前国風土記』にも、それぞれの温泉が出てきます。武雄の神功皇后伝説は、皇后が剣の柄で岩を一突きしたら温泉が湧き出たというもので、そこから柄崎と呼ばれるようになったとされます。

その後、柄崎はいつの頃からか塚崎と書くようになったようですが、武雄の名については、明治政府が各府県に作成させた『旧高旧領取調帳』によると、肥前佐賀藩に「武雄村」の名があり、幕末には一つの村になっていたようです。その後、1889(明治22)年の町村制施行では、武雄村の柄崎などの集落によって武雄町が発足しています。

武雄のシンボル的な山・御船山の北東麓にある武雄神社は、735(天平3)年の創建と言われ、武雄の名はこの神社に由来するそうです。で、その武雄神社の「武雄」については、諸説あるようですが、武雄神社では、武内宿禰を主祭神に、その父である屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)などを合祀しているので、武雄心命のお名前を頂戴したのかもしれませんね。

御船山楽園

この武雄神社とは反対側の御船山南西麓には、御船山楽園という庭園があります。15万坪という広大な大庭園で、江戸時代の武雄領主鍋島茂義の別邸跡です。

御船山の断崖絶壁に向けて、20万本ものツツジが植えられ、開花時期には広い園内が一面、ツツジのジュータンを敷き詰めたようになります。また、秋の紅葉時には、ライトアップが行われ、御船山楽園の池には灯篭が浮かび、幻想的な世界が展開します。

御船山楽園

武雄はまた、焼き物の産地としても知られます。もともと、武雄市のある佐賀県西部から長崎県東部にかけては、有田や伊万里、唐津、三川内(佐世保)、波佐見など、古くから肥前の窯業の中心地でした。これらの窯業地は江戸時代、有田と伊万里は佐賀藩の本藩領、唐津は唐津藩領、三川内は平戸藩領、波佐見は大村藩領で、武雄だけは佐賀藩の家老・武雄鍋島家領でした。

佐賀藩は、ちょっと複雑なお家の事情があって、もとは龍造寺氏の支配地でしたが、本家の断絶に伴い、家臣だった鍋島氏が龍造寺氏の遺領を継承。龍造寺一族との融和を図るため、一族のうち特に有力だった龍造寺四家を優遇し、鍋島氏の親類同格としました。武雄鍋島氏もその一つでした。

そのため、武雄はいわゆる自治領で、独自の運営をしていました。で、武雄市内には大小70を超える古窯跡があります。中でも、市北部の竹古場山山麓にある錆谷、小峠、大谷の窯跡は古く、国の史跡に指定されています。400年以上前、文禄・慶長の役に従軍した武雄領主・後藤家信が、朝鮮半島から連れ帰った陶工たちが築いた窯です。

武雄には、今も多くの窯元が点在しますが、その一つ黒牟田焼は、400年前から竹古場山の麓で窯を守り続けています。最盛期の江戸中期から明治頃には、狭い谷間を流れる黒牟田川に添って、40軒もの窯元がひしめいていたといいます。土瓶や壼、湯たんぽなど、時代の変遷に合わせて、一貫して庶民の器を作り続けてきました。今では丸田宣政窯1軒のみとなりましたが、我々が取材させてもらった宣政さんの跡を長男の延親さんが継ぎ、黒牟田焼の伝統を守り、黒や緑の紬薬を用いた、素朴でおおらかな味わいの民芸陶器を作っています。



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