人の営みにより作られた美しい風景 - 山古志

山古志

もうだいぶ前の話ですが、雑誌の企画を練るため、よく図書館に通っていました。今ならインターネットで、さまざまな資料が居ながらにして検索出来ますが、その頃はそうはいきません。しかも、目当てのものが一発で見つかるわけではなく、0類「総記」の事典や郷土資料に始まり、2類「歴史」の地理・地誌・紀行、6類「産業」や7類「芸術・美術」など、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、それはもう大変でした。

そんな中、ふと手に取った、ある写真集で心ひかれる1枚の写真に巡り会いました。それは、朝霧がかかる谷あいに、オレンジ色の斜光が差し込む幻想的な風景でした。撮影場所を見ると、「新潟県山古志村」とありました。

以来、山古志村は特別な存在となりました。いつか行ってみたい。そう思っていましたが、機会はなかなか訪れませんでした。ところが、ある企画がきっかけで、思いがけず山古志村に行けることになりました。

山古志

当時、関係していた雑誌で写真の誌上コンテストがあり、プロの写真家二人と毎月選考に臨んでいました。回を重ねるうち、アマチュアとはいえ、非常に優れた写真を撮る人たちが何人も登場してきました。

そこで編集部では、それらの方を案内人に、このブログのタイトルに使っている「旅先案内」という企画を立てました。そのうちの一人で、新潟県の加茂市に住む方が、山古志村を「旅先」に選んだのです。

山古志その方は当時、二科会写真部の新潟副支部長を務めており、撮影のため何度も山古志に足を運んでいたらしく、村のあちこちまで知り尽くしていました。写真は先方がこれまで撮りだめたものの中からセレクトして使わせて頂くことになっていたので、取材は裏取りを中心にし、撮影は念頭にありませんでした。そんな心掛けだったからか、ピンポイントで撮影スポットに案内して頂きましたが、当日は若干天気が崩れ、残念ながら霧を見ることは出来ませんでした。

取材が終わって別れ際、その方が、10月10日の体育の日あたりがベスト、と教えてくれました。

翌年10月10日、今度は満を持して山古志村を再訪しました。その年は知人を誘い、川口町のキャンパス川口という所で生まれて初めてのキャンプも経験。また、堀之内町のヤナ場でアユを食べ、山古志村の闘牛も見ました。ある意味、とても思い出に残る撮影行となりましたが、肝心の霧は、あの写真とは比べものにならないほど控えめでした。

更に次の年に、三度目の正直を敢行。やっと、あの朝霧と斜光が目の前に展開しました。一つの風景を3年も続けて追いかけのは、後にも先にも山古志だけです。

その山古志村が、2004(平成16)年の新潟県中越地震により、全村避難という事態に陥りました。震源地は2回目の撮影時に泊まった川口町(現・長岡市川口)で、最大震度7を観測。震度6強の山古志村では、あちこちで大きな地すべりが発生し、ライフラインが途絶え、全ての集落が孤立しました。そのため村は全村民に対し避難指示を出し、05年に合併が決まっていた、隣接する長岡市などでの避難生活を余儀なくされました。

その後、震災から3年2カ月後の07年12月、長岡市と合併した旧山古志村で「帰村式」が行われました。「村」に戻ったのは、地震発生時の7割の人だけでしたが、全集落の約1400人が帰村。伝統の闘牛「牛の角突き」も、また「泳ぐ宝石」と呼ばれる錦鯉の飼育も、復活しました。

山古志

特に錦鯉は山古志が発祥の地と言われ、歴史は江戸時代までさかのぼります。

山古志は村全体が海抜300~700mの山間丘陵地で、村人たちは棚田を作り、山の地下水を引いて使っていました。ただ、そのままでは稲作には不向きな水温だったため、棚田の上部にため池を作り、そこで水を温めてから田んぼに引いていました。

更にこのため池で、冬の間のたんぱく源となる鯉を飼育することにしました。その鯉がある日、突然変異を起こし、色の付いた鯉が生まれました。村の人たちはそれを「色鯉」と呼び、次第に色鯉同士を掛け合わせるようになりました。それを、1914(大正3)年に開催された東京大正博覧会に「変わり鯉」として出品。すると大きな評判を呼び、これをきっかけに更に改良を重ね、現在の錦鯉が生み出されたのです。

食用鯉を飼い始めて200年の時が流れた現在、山古志発祥の錦鯉は世界に飛び出し、海外からバイヤーが訪れるようになっています。

木籠メモリアルパーク

※土砂崩れにより川がせき止められ、集落全体が水没してしまった木籠地区には被災した家屋がそのまま残され、中越地震の爪痕を伝える「木籠メモリアルパーク」となっています。このエリアにはまた、集落で作った産物の直売所と、資料館の「郷見庵」があり、地域の人たちで運営しています。直売所は当初から、被災地だからと甘えず、きちんとした商品づくりに取り組んだ結果、今も県内外から多くの人が来てくれるそうです。そして、訪問者の中には長く木籠を応援してくれる人たちもあり、そうした人たちと住民とで「山古志木籠ふるさと会」を結成し、交流の輪を広げています。

コメント

  1. このコメントは投稿者によって削除されました。

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  2. 中越地震の時は応援に行けませんでした。

    でもお母さんと山崩れに遭遇しながら、子どもが90数時間後に救出されたり、当時の長島村長がその後中央政界に進出、道半ばでお亡くなりになったことなど山古志村にはある種の思いがありました。行きたい場所リストにノミネートします。

    返信削除
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    1. 陸前高田の仮設商店街の皆さんが、先々のためにと山古志を見学に行かれた時も同行しましたが、現在、陸前高田では解消された仮設商店街の跡地で、復興の拠点となる「たまご村」プロジェクトが進行中です。山古志も、また陸前高田を始めとした三陸の被災地も、もともと人口減少や高齢化が問題となっていたので、震災の風化にコロナ禍が追い打ちをかけ、大変だと思います。ただ、行きたい気持ちはあっても、今は躊躇せざるを得ず。特に感染者ゼロの岩手様には・・・行きにくいですね。

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