佐賀県を代表する民俗芸能・面浮立
この風流踊の流れをくむ民俗芸能が、佐賀県鹿島市にもあります。県の重要無形民俗文化財に指定されている「面浮立」です。「浮立」の由来は、もちろん「風流」で、佐賀県南西部に多く見られます。この辺りの浮立は、鬼の面を被って踊るのが特徴で、そのため「面浮立」と呼ばれます。そして、面浮立を踊る際に使う面を浮立面と言います。
鹿島錦の取材で、この地を訪れた時、地元の方が浮立面を彫っている方の工房に連れて行ってくれました。
浮立面は木彫りの面で、素材は佐賀県の県木である楠を始め、桐や檜などを使います。同じ鹿島でも、地域によって表情が微妙に異なりますが、阿吽の面相を一対とするのは、共通しています。「阿」が雌面、「吽」が雄面で、雌面は角がほとんどなく、額にV字の皺があり、雄面は角が長く、額にU字の皺があります。
浮立面は、2003年に、佐賀県の伝統的地場産品に指定されました。現在、浮立面を制作している工房は、杉彫と中原恵峰工房の2軒で、いずれも鹿島市にあります。杉彫の4代目小森恵雲さんは、2002年に佐賀県マイスターに認定され、2015年には、中原恵峰さんと共に、国土緑化推進機構の「森の名手・名人」に認定されています。この浮立面をかぶって踊る面浮立には、いろいろ種類があって、その中で、県の重要無形民俗文化財に指定されているのは、鹿島市の音成(おとなり)面浮立と母ケ浦(ほうがうら)面浮立の二つになります。音成が、最も古い形を残していると言われる面浮立で、母ケ浦は、鬼面芸として完成された芸と構成を持っているとされます。佐賀県には、他にも面浮立がありますが、この音成系と母ケ浦系の2種類に分かれるようです。
音成浮立と母ケ浦浮立を見分ける上で分かりやすいのは、衣装の違いになります。音成は濃紺1色で帯と太鼓のひもが黄色なのに対し、母ケ浦は波といかりの華やかな模様の衣装になっています。他にも、曲目の違いや動きの違いなどがあるようですが、私は実際の面浮立を見たことがないので、分かりません。
ちなみに、音成も母ケ浦も、1955(昭和30)年に鹿島市に編入された旧七浦村にあり、鹿島市の面浮立は、この七浦地区から広がったとされます。面浮立自体の起源については、いくつか説があるようですが、有名なのは、1530(享禄3)年、北九州の覇権をめぐって周防国(山口県東部)の大内氏と肥前国(佐賀県、長崎県)の少弐氏との間で起きた田手畷の戦いに由来するという説です。
両軍の兵力は、同じぐらいでしたが、大内勢優勢のうちに、少弐勢はずるずると後退。そんな時、赤熊(しゃぐま)をかぶった一団が、戦場に現れ、大内勢に向かって突撃。このわけの分からない軍団の出現に、敵は大混乱。あっという間に、大将二人が討ち取られ、我先にと敗走を始めます。当然、少弐勢は、勢いに乗り、反撃を開始。大勝利を収めます。
この赤熊軍団は、少弐氏の家臣・龍造寺氏に従っていた鍋島清久の一族郎党100人余りで、彼らが勝利の後、しゃぐまをかぶったまま踊った戦勝踊りが、面浮立のルーツというものです。
しかし、田手畷は今の吉野ケ里町で、七浦からは50kmも離れているため、七浦が元と考えると、つじつまが合いません。また、鍋島清久の本拠地・本庄(現・佐賀市本庄町)に戻ってからの話だとしても、七浦とは35kmほど離れているので、これも無理がありそうです。
その一方、七浦のいくつかの地区には、「面浮立は諫早から伝わった」という伝承も残っているそうです。その長崎県諫早市には、黒鬼面で踊る田結(たゆい)浮立があり、市によると「起源は奈良時代までさかのぼる」としています。奈良時代というと、1200年以上も前の話なので、田手畷の戦いどころの騒ぎじゃありませんが、その一方、諫早市では「300年以上の伝統を誇る田結浮立」というキャッチを使ってもいます。1200年と300年では、さすがにぶれすぎなので、これはもう謎としか言いようがありません。
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