三次浅野藩と赤穂浪士の絆求めて
この辺り一帯は、秋から春にかけて、川が運ぶ冷気の影響で、濃い霧が時々発生します。夜半から朝まで漂う「霧の海」は、観光の呼びものの一つになっていますが、昔は往来を妨げ、山道の通行を難儀なものにしました。このため、江戸時代、出雲への道は、東海道並みの道幅に広げられ、一里塚も置かれたといいます。
三次市は、江戸時代、広島・浅野藩の支藩である三次藩の城下町として栄え、四十七士の討ち入りで知られる元禄赤穂事件とも深い関わりがあります。
三次の地は、もともと三吉氏が代々領地としていたもので、16世紀末に、今の尾関山公園の北方にそびえる比熊山一帯に山城が築かれました。その後、この城は廃城となり、関ケ原の戦いの後、安芸国に入封した福島正則が、重臣・尾関正勝にこの地を治めさせ、尾関氏は江の川を見下ろす尾関山に館を構えました。そして、1619(元和5)年、福島正則の改易に伴い、浅野長晟が安芸に入封しました。
今から390年前の1632(寛永9)年、長晟が没し、嫡男光晟が家督を継ぎます。しかし、当時、光晟が17歳という若さだったこともあって、幕府は、光晟の庶兄に当たる浅野長治に5万石を分与する処置をとらせて、本藩を手助けさせることにしました。こうして三次藩が成立し、長治は、三次の町全体を一つの曲輪(郭)に見立て、4代にわたってこの地を治めました。
元禄赤穂事件でおなじみの浅野内匠頭長矩の正室阿久利姫(揺泉院)は、この三次藩初代藩主浅野長治の次女にあたります。二つの浅野家は、長矩の高祖父にあたる長政から分かれたもので、同族ということになります。
二人の縁組は、長矩が10歳、阿久利が7歳の時に幕府から許可され、長矩17歳、阿久利14歳の時に結婚。この時、赤穂藩からは、家老の大石内蔵助が迎えに来ました。大石、時に24歳。まさかに、19年後、主君の仇討ちということになるなど、思いようもありません。大石は、長治の建てた鳳源寺に詣で、境内にシダレザクラを植えました。今に残るこの桜は、両家の繁栄を願ってのものだったでしょう。阿久利は、事件後、落飾して揺泉院と称し、今の東京・赤坂にあった三次藩の江戸下屋敷に移り、長矩自刃後13年の年に46歳で没しました。その遺髪は、鳳源寺に納められ、今も遺髪塔として残されています。
時は流れて、1930(昭和5)年、三次市在住の藤原藤太郎さんが、1年半をかけて彫り上げた赤穂四十七士の木像を、鳳源寺に納めました。四十七士木像は、81年(昭和56)、三次ライオンズクラブが結成20周年を記念して、鳳源寺境内に建立した義士堂の中に安置されています。更にライオンズクラブでは、これを機に三次と赤穂浪士の関わりに注目。5年後の86年からは、市民参加型の活動として、義士祭をスタートさせました。この祭りは、赤穂浪士討ち入りにちなんで、毎年12月、義士堂前で法要が行われ、多くの市民が集まって浪士の霊をとむらい、参列者には討ち入りそばが振る舞われます。元禄の昔をしのんで、古里の歴史を思い起こそうというこの活動は、年ごとに盛んになり、一つの観光資源としても注目されるようになりました。
三次は、赤穂藩だけではなく、浪士個人との関わりも深い土地です。大石内蔵助は、山鹿流兵学に詳しかったそうですが、その大石に山鹿流兵学を伝授したのは、四十七士の一人、菅谷半之丞政利だと言われています。菅谷半之丞は、代々の赤穂藩士で、山鹿素行が赤穂にいた10年間、その教えを受け、それを大石に伝えたのだといいます。知行100石、馬廻り兼郡代を務めていましたが、藩が取り潰されてからは、三次に移り住んで機をうかがっていました。住んでいたのは、旧城下町から西条川にかかる旭橋を渡って5分ばかり歩いた所で、今も甲斐庵跡として残っています。
菅谷は、昼は釣り三昧、夜は酒という毎日で、借財もかさみ、周りの人々をあきれさせたといいます。やがて討ち入りの機が熟し、1702(元禄15)年10月、菅谷は三次を去って、大石と共に江戸ヘ下りました。主の去った家には、借りた金の金額と借りた人々の名を記した書き付けが残され、借財に相当する金銭が置かれていたといいます。兵学者らしい身の処し方で、仇討ちの秘密を守ったわけです。菅谷は、江戸にあっても大石の参謀の役割を果たし、討ち入り当日は、裏門の大将・大石主税を補佐して戦ったといいます。
三次の義士祭では、当然ながらこの菅谷半之丞が、もう一方の主人公として注目されることになるのは、言うまでもないでしょう。
菅谷は討ち人り後、大石主税らと共に伊予松山藩の松平隠岐守邸お預けとなり、あくる1703(元禄16)年2月4日、切腹、享年44。法名は刃水流剣信士でした。
元禄時代を舞台にしたNHK大河ドラマ『元禄繚乱』で、赤穂浪士がいく度目かの脚光をあびた99(平成11)年4月4日、三次ライオンズクラブは尾関山公園に阿久利姫像を建立。三次さくら祭り期間に、三次市長や広島県会議員らも出席して、除幕式が行われました。一目千本と言われる見事な桜の中に建てられた石像は、匂い立つばかりの美しさで、元禄の昔をしのばせるようでした。
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