いのち輝く備後三次のひな人形

三次市は広島県北部、中国山脈の中の三次盆地の中心にあります。西城川、馬洗川、可愛川の三つの流れがここで落ち合い、西日本の太郎・江ノ川となって、日本海へ注ぎます。可愛川に沿って南へ行けば広島、馬洗川を東南にたどれば尾道、福山の瀬戸内海に、西城川をさかのぼれば出雲、江ノ川を下れば石見へと、三次は古くから、山陽山陰を結ぶ交通の中心地として栄えてきました。それは今も同じで、鉄道では芸備線、福塩線、三江線が通り、国道54号と同183、184号両線の分岐点となっています。

この三次の町を歩いていると、そこかしこに懐かしげな商家、町家、白壁の土蔵造リなどを目にすることが出来ます。特に、万光小路などのいわゆる「めくら小路」や、西城川の堤沿いに古い家並みが続く旭町などは、あたかも江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えます。その基礎を作ったのは、1632(寛永9)年、広島・安芸藩から分封されてきた浅野長治で、長治は現在の三次町を中心に武家屋敷町、町人町などを形成し、城下町・三次としての体裁を整えました。

三次の町が、浅野長治の時代に基盤が出来たのと同様、今に残る三次の文化、三次ひな人形や鵜飼も、この長治が持ち込んだものです。鵜飼は、参勤交代の途中、アユやコイの卵を採取して、川漁を奨励したことに始まリ、今でも三次の夏の風物詩として、人気を集めています。また取材したひな人形も、長治が江戸から土人形師を連れ帰リ、この地で作らせたのが始まりと言われています。

三次地方では、江戸時代から春の節句は男女共通で、4月3日(旧暦3月3日にあたる)に行われています。初節句を迎える子どもには、男子に賢聖・武人の人形を、女子には娘人形を贈るのが習わしでした。中でも、この地方は古くから天神信仰が厚く、節句前には三次の町を中心に、近郷にも天神像を主座とする人形市が立ったそうです。

三次ひな人形の起源は、1641(寛永18)年。長治が連れ帰った職人は、江戸浅草・今戸焼の土人形師・森喜三郎で、長治は喜三郎に五人扶持を与え、主として忠臣孝子の像を作らせました。そして長治は、家臣に子どもが生まれる度に、一個の人形を贈っては、忠道孝道の励ましにしたといいますが、それが後に、町民の人形贈りの風習になったようです。

三次ひな人形は、素焼きの土人形に彩色を施したものですが、もともと三次は冒頭に記したように三つの川の合流点にあたり、良質の粘土層をもたらしていました。そしてこれが、三次ひな人形を生む母体ともなったのです。

三次人形のいのちは、李朝白磁の肌を思わせる、その艶だち輝く面輪にあります。そしてこの艶のあるところが、他の土人形とは違う三次人形の特徴となっています。

土人形は、粘土を原料として焼成し、それに彩色を施しますが、普通はそこで終わるため、絵具が土に染み込み、艶が失われます。しかし、三次人形の場合は、彩色後に顔に磨き出しをかけます。この磨き出しというのは、顔面に胡粉を塗って、柔らかい布で丹念に磨きあげる技法をいいます。また、胴体の方は泥絵具で彩色後、膠を塗って艶を出します。泥絵具の華麗な彩色に胡粉の白さが一段と映え、そのため三次人形は、別名「光人形」とも呼ばれています。

三次人形は、昔からの粘土型を使うため、原型は変わりません。品種には、代表的な座リ天神、それに松天神、梅天神などの変わり天神、そして武者物・女物・獣型など200を超す型があります。

ただ、380年の歴史を持つこの三次人形も、戦時中に他の郷土玩具同様、製作禁止となり、一時廃絶したこともあって、現在残っている窯元は、取材に協力して頂いた三次人形窯元華園窯の丸本堯さんだけ。最盛期には年間100万体も作られたという人形も、取材時で約2000体、今では500体のみになってしまっています。

そういえば、三次人形の元である東京浅草の今戸焼も、今では1軒を残すばかりになっています。長い伝統を持ち、その土地土地で綿々と受け継がれてきたこうした民芸、工芸は、いつまでも大事にしたいものです。

※記事を書くに当たって確認したところ、丸本さんはこの3月16日に亡くなられたそうです。謹んでご冥福をお祈り致します。

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