白壁土蔵の街に春の訪れを告げる流しびな
倉吉市は鳥取県中部、市のほぼ中央に打吹山があり、その少し北に玉川という水路が通っています。玉川沿い(通称川端)には、昔ながらの土蔵や商家が軒を連ね、伝統的建造物群保存地区の指定を受けたレトロな町並みが形成されています。これらは江戸時代から昭和初期に建てられたものがほとんどで、赤い石州瓦で葺かれた屋根が、家並みに統一感を与えています。
倉吉は、倉吉往来、津山往来、八橋往来、備中往来といった交通の結節点にあり、古くから栄えてきました。更に江戸時代には、倉吉せんばと呼ばれる脱穀具で一世を風靡しました。冬の間にせんばを作り、春には日本中に出荷していました。せんばの行商に出掛けた商人はまた、各地の文化を身に付けて倉吉に戻ってきました。その代表格である倉吉絣は、薩摩や久留米を行商した人たちが持ち帰ったと言われ、すぐにせんばと並ぶ主産業となりました。そしてせんばと絣で潤った町には、米問屋や鉄問屋、木綿問屋、醸造業などが蔵を並べ、裏手には水路が造られ、舟が絶えず往来するようになりました。
裏通りのため、人通りがまばらなことも手伝い、昔町にタイムスリップしたような感覚に陥ります。また、玉川をまたいで、各土蔵の木戸口に向かってゆるやかな反りを持つ一枚石の石橋が架けられています。赤い瓦の白壁土蔵群と運河、そして石橋の連続が、非常に美しい家並みを形成しています。
この川端で毎年4月、子どもたちによる流しびなが行われます。1985年に倉吉打吹ライオンズクラブが始めてから、今年で36回目を迎え、「くらよし打吹流しびな」の名で今や倉吉を代表する春の風物詩となっています。流しびなは巳の日の祓いとして、草や紙で「ひとがた」を作り、災いを払うために川や海に流した行事が源と言われます。やがて3月3日の上巳(本来は3月上旬の巳の日だったらしい)に、子どもたちの健康を願って人形を流す風習へと変遷しました。今でも奈良県五條市や兵庫県たつの市、京都・下鴨神社などで、伝統的な流しびなが行われており、中でも鳥取市用瀬町の流しびなは全国的にも知られています。
もちろん「くらよし打吹流しびな」も、子どもたちの健やかな成長を願ってのイベントなのですが、そもそもの発想は玉川の浄化運動から生まれました。水路としての役目を終えた玉川は、生活排水などで汚れ、70年代から80年代にかけては、誰も見向きもしない川となっていました。そこで、昔の清流を取り戻そうと、倉吉打吹ライオンズクラブが活動を始めたわけです。
最初は清掃奉仕をしていましたが、市民の意識向上を図らなければ、根本的な解決にはならない、とクラブ内で議論を重ねました。その中から、次代を担う子どもたちが主体となって参加出来るものをと、流しびなのアイデアが出て来たそうです。
倉吉での流しびなは、折り紙で作った人形を絵馬に張って流しますが、そのほとんどは子どもたちの手作りびな。市内の幼稚園や保育園に材料を提供し、園児たちが自分で製作。また、一般参加用はリハビリを兼ねてお年寄りに作ってもらい、それを市役所やクラブ事務局、会員の事業所などで販売し、奉仕活動の資金にしています。
更に、この行事に合わせて、市内小・中学校の生徒から、玉川美化のポスターを募集してみたり、流しびなの写真コンテストも開催。こうした企画を次々と打ち出したことで、回を重ねるごとに市民の間に流しびなが定着しました。倉吉ライオンズクラブが、ひな人形や3月の節句に飾る郷土玩具どろ天神を展示した「ひいなの祭り」を始めるなど、市内の各種団体もこれに合わせてイベントを組むようになりました。また、10年ほど前からは、倉吉絣を着て白壁土蔵群を散策出来る、着付けコーナーも設けられ、より一層グレードアップ。それら全てが、郷愁を呼ぶ町並みとよくマッチして、春の倉吉観光には欠かせない目玉行事となっています。
なお、打吹公園は「さくらの名所百選」に選定されており、春は倉吉観光のベスト・シーズンです。鳥取空港、米子空港どちらからでも、連絡バスで約45分。鉄道の場合はJR山陰本線倉吉駅を利用。
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