数百年の時を経て独特の色艶を見せる煤竹細工
近世には山陰道、津山街道、勝山街道が交差する宿場町として、京文化や吉備文化が往来し、また鳥取藩の城下町として栄えました。江戸中期には「倉吉せんば」の産地として一大繁栄期を迎え、当時造られた白壁の土蔵群が、その頃の面影を伝えています。倉吉絣や二十世紀梨の産地としても知られ、民芸の町と言われるように、優れた郷土玩具や民芸品もあります。
その一つに、倉吉独特の煤竹細工があります。煤竹というのは、茅葺屋根の屋根組みに使われ、囲炉裏や竈から立ち上る煙が染み込んだ竹のこと。長い年月、煙にいぶされた竹は、付着していた煤を取り除いてみると、独特の飴色になっています。200年、300年を経たものなど、実に見事な色合いで、煤竹細工はそれを使って作られます。
煤竹細工が倉吉で始まったのは、そう古いことではありません。倉吉出身の中野竹蔵氏が神戸に出て、大正元年に竹製のペン軸を作り、ドイツへ輸出したことに端を発します。倉吉の南方、岡山県境一帯にかけて自生する、俗に鳳尾竹と呼ばれる根曲竹を使ったものでした。その後、二度の大戦に巻き込まれ、事業は二転三転しました。しかし、その間も一貫して竹製品を作り続け、1939(昭和14)年には故郷倉吉に戻り、更に終戦後、現在のような煤竹を用いた竹窓の製造を始めました。
特に高度成長期に入ると、農家が家を次々と建て替えるようになり、煤竹がたくさん出ました。鳥取県内はもとより、兵庫、京都、北陸3県などにも足を伸ばし、煤竹を集めて歩きました。それと共に、煤竹細工もさまざまなものが作られるようになってきました。
1965(昭和40)年には天皇、皇后両陛下上覧のため、煤竹製の衝立を作り、70年には大阪万博に出品。このあたりから、工芸的な製品作りが増えてきました。現在は茶道や花道関係のものが多く、また、飾り窓の窓枠も種々あります。ただ、家の建て替えが一通り終わると、昔ながらの茅葺きの家はだんだんと少なくなり、材料の入手が困難になってきました。そのため、高知県須崎から取り寄せた黒竹を使ったり、人工的に煤竹に近い色に染める技術を開発して、本物の煤竹は大事に使うようにしているそうです。
←煙にいぶされ年月を経た煤竹には、青竹のような柔軟性はなく、それを曲げるには、かなりの年季が必要です
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