観光客0の町を、年間100万人が訪れる町に変えた観光カリスマ

 

出石城と赤い鳥居

出石については、このブログでも一度、記事を書いていますが、最初に行ったのが1987(昭和62)年で、以来3、4回は行っています。そんな出石の話題が、テレビ朝日の人気番組「激レアさんを連れてきた」で取り上げられました。というか、画面は見ていなかったのですが、「辰鼓楼」と「甚兵衛」という言葉が、耳に入ってきたのです。

最初に行った時、取材先の方に連れられて入った、出石名物・皿そばの店が、甚兵衛でした。その4年後に、町並みを中心に取材した時には、辰鼓楼はもちろん、甚兵衛で皿そばの取材、撮影もさせてもらいました。

出石の町並みと辰鼓楼

そんなわけでテレビを見ると、出ていたのは、甚兵衛の渋谷朋矢さんという方でした。私がお会いしたのは、創業者の渋谷勝彦さんで、朋矢さんはその息子さんだろうと想像しました(後で聞いたら、婿養子さんだったようです)。

で、激レアさんとして連れてこられたのは、「町の自慢である日本最古の時計台の歴史を調べたら最古ではなく2番目だと判明し、町の誰にも言えず1人で震えていた人」としてでした。そう言えば、番組の3カ月ほど前のニュースで「最古論争に決着」として、札幌の時計台と共に日本最古の時計台と呼ばれてきた辰鼓楼は、実は日本で2番目だったと報じられていたことを思い出しました。で、事もあろうに、それを暴いちゃったのが、地元・甚兵衛のご主人だったんですね。

私も以前、雑誌に出石の記事を書いた時、次のように紹介していました。「但馬の小京都と呼ばれる豊岡市出石は、日本最古の時計塔『辰鼓楼』や、江戸中期に建てられた酒蔵など、郷愁を誘う美しい町並みで、多くの観光客を引き付けている」。むむむ・・・違っちゃったじゃないの。

しかし、実は出石の観光協会では、案内板や観光パンフレットに「日本最古」と紹介されていても、ウラが取れていないため、いつも「日本最古かもしれない」と明言を避けていたそうです。そのため、最古じゃないと分かって、逆にほっとしたらしく、「これからは堂々と、日本で2番目に古い時計台」と名乗れると喜んだとか。また、周囲の反応も好意的で、観光客が減るような心配もないようです。

そんな出石ですが、50年前には、観光を目的に出石を訪れる人など皆無に等しいものでした。京阪神から天橋立や城崎温泉など、有名観光地へ向かう途中にありながら、出石は完全スルーだったのです。

出石の土蔵群

潮目が変わったのは1968(昭和43)年、出石城に木造の隅櫓が復元されてからです。「何とか寄ってくれんかなあ」。そんな望みを抱いた町民有志が、寄付を募って建設したものでした。そしてこれを機に、観光客が少しずつ訪れるようになりました。その上、隅櫓の復元は、町民の連帯という副産物をも生み出しました。

そうした中、73年に出石観光協会の改組が行われ、一般町民約400人が参加する、当時としては全国に例を見ない観光協会が誕生しました。それを主導したのが、上坂卓雄さんでした。

上坂さんは更に、出石の伝統的な食文化「皿そば」に着目。出石そばは1706(宝永3)年、出石藩と信州上田藩が国替えとなった際、上田藩主と共に信州から来たそば職人の技法が、在来のそば打ちの技術に加えられ誕生したと言われます。その後、藩内で白磁の鉱脈が発見されたのを機に、出石焼の生産が始まり、白地の小皿にそばを盛る様式が確立しました。

出石皿そば

しかし、60年代には出石のそば屋は2軒しかなく、しかも秋から春にかけての半年しか営業していませんでした。これを出石名物にしようと考えた上坂さんたちは、実演販売のため全国を回り、出石皿そばのPRに努めました。

そのかいあって、出石城や古い町並みと共に、皿そばを食べたいという新たな観光客も掘り起こし、出石を訪れる人は右肩上がりに増えました。それに伴いそば屋も増え、今や50軒が軒を連ねます。そして、観光客誘致だけではなく、皿そば、出石焼という伝統文化を地場産業として成り立たせることにも成功しました。

出石明治

その一方、上坂さんは、出石の町づくりがこのままでいいのか疑問を持つようになりました。そこで、町づくりの専門家や建築家などを招き、交流・議論する中で、出石の魅力である美しい町並みを保存する運動を起こすこととなります。そして87年、出石ライオンズクラブが中心となり、第1回目の「兵庫・町並みゼミ」が開催されました。

その翌年、上坂さんは町民に働き掛け、「出石城下町を活かす会」を設立。会には大工、屋根屋、左官といった建築関係者を含め総勢186人が参加しました。上坂さんは設立当初から会長として、町民・行政・専門家が協力した町づくりを進めることを考え、町並ウォッチングや講演会、出石の地酒にスポットを当てた「酒蔵コンサート」や「地酒を飲む運動」などの活動を主導しました。


その集大成として98年、第3セクター「出石まちづくり公社」を設立。1株5万円で株主を公募したところ、町民339人から応募があり、町づくりに対する町民の関心を更に高めることになりました。

現在、出石には年間100万人という観光客が訪れるまでになりました。その立役者こそ、「観光カリスマ」の称号を持つ上坂さんなのです。

関連記事→但馬の静かな城下町。郷愁を呼ぶ町並みを歩く

写真上:明治から昭和30年代にかけ、歌舞伎や寄席、活動写真など但馬の大衆文化の中心として栄えた永楽館も、上坂さんらの尽力により復活しました

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