白と藍のコントラストが美しい肥前三川内焼

昨日の記事(長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット)で、多良街道と長崎街道の宿場町として、また有明海の干満差を利用した河港都市として栄えた嬉野市の塩田について触れました。

記事では、塩田は「肥前の窯業地に近かったため、熊本の天草地方で採取した陶石『天草石』を、有明海を経て塩田川から直接運搬」したとしましたが、その天草石を、いち早く陶磁器に使ったと思われるのが、佐世保市にある三川内焼です。

三川内焼の起源は、慶長の役で朝鮮に渡った平戸藩祖・松浦鎮信が、帰国に際し、朝鮮人陶工数十人を連れ帰ったのが始まりです。その中に、優れた技を持つ巨関(こせき)がおり、鎮信の命によって1598(慶長3)年、平戸に窯を開きました。平戸市山中町にある中野窯跡がそれで、県の史跡に指定されています。

巨関と息子の三之丞(後に今村姓を賜る)は、藩主の命により陶石を求めて各地を探索、1637(寛永14)年、平戸から50km離れた三川内に窯を移しました。以米、明治維新の廃藩に至るまで、一貫して平戸藩御用窯として松浦氏の保護下にあり、精妙な陶技が磨かれました。こうした経緯から、三川内焼は「平戸焼」とも称されます。

窯が、平戸から三川内に移された当時、既に大村藩は波佐見で、鍋島藩は有田に陶石鉱を発見し、磁器焼成を行っていました。一方の三川内は、有田や波佐見に隣接しているものの、満足のいく陶石は得られなかったようで、この地で本格的に磁器が焼かれるようになったのは、今村家3代の弥治兵衛(如猿)が、1662(寛文2)年に、肥後(熊本県)の天草石を使うようになってからのことといいます。

天草の陶石は、日本の磁器原料の約80%を占めるほどになっていますが、当時はまだ地元以外ではあまり知られていなかったようです。天草陶石が発見されたのは、江戸初期の1950年頃のことと推測され、当時、幕府直轄領だった天草では、島民が自活のため、陶磁器を焼いていたという記録が残っているそうです。

1922(大正11)年に設立され、天草陶石を採掘・出荷している上田陶石によると、1712(正徳2)年頃、佐賀県嬉野市吉田の製陶業者に天草陶石を供給したのが、製陶原料として使用した初めとされているとのこと。これが、恐らく塩田津に陸揚げされた、最初の天草石だったのではないでしょうか。

一方の三川内では、天草石を直接、早岐の港に陸揚げしていました。弥治兵衛はこの砥石を、父・三之丞が1633(寛永10)年に、針尾島の三ツ岳で発見した網代土と調合して、優れた白磁を焼成しました。巨関が平戸に窯を築いてから、60余年の時が経過していました。以来、今日に至るまで、天草陶石を主原料として、藩窯時代に培われた繊細優美な伝統を守りつつ、多種多様な磁器が生産されています。

ところで、昨年暮れに書いた大村の記事で、長崎空港がある大村湾は、四方を陸で囲まれた「ほぼ湖」となっており、外海とつながるのは、針尾瀬戸と早岐瀬戸の2カ所だけで、いずれも佐世保湾に通じていると説明しました。この針尾瀬戸と早岐瀬戸があるのが、三之丞が網代土を見つけた針尾島で、島には1992(平成4)年に開園した「ハウステンボス」があります。

ハウステンボスは、17世紀のオランダの街並みを再現したテーマパークで、鎖国以前の江戸初期にオランダ商館などを開設していた平戸藩とオランダとの交流にちなんで開設されました。ハウステンボスとは、オランダ語で「森の家」という意味で、オランダに実在する宮殿の名前でもあります。それをテーマパークの名前に使うに当たって、オランダ王室は、両国間の文化の架け橋になれば、と宮殿名の使用を許可してくれたそうです。


ちなみに、ハウステンボスは思うように客足が伸びず、一時破綻に追い込まれました。その後、旅行代理店のH.I.S.が中心となって再建を図り、オランダとは直接関係のない企画を次々と打ち出し、集客を増やしました。現在の運営会社は、「オランダはもう意識していない」と言い切っているそうですが、テーマを捨てた上、一貫性のない企画を続けていることには、疑問の声を出ているようです。

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