名水とオオムラサキの里・長坂で味わうこだわりのそば
以前の記事(日本ワインの革命児・ウスケボーイズを探して)にも書きましたが、北杜(ほくと)市は山梨県最北端、八ケ岳や甲斐駒ケ岳といった山々に囲まれ、ミネラルウォーター生産量と日照時間がいずれも日本一という豊かな自然に恵まれた町です。北杜の「杜」は、バラ科の落葉小高木「やまなし」のことで、山梨県の北部という意味で市名となりました。
面積は山梨県で最も広い602.5km2で、私が住んでいる越谷市(60.2km2)のちょうど10倍もの広さがあります。というのも、平成の大合併で8町村が合併して生まれた市だからでです。ただ、それだけ多くの自治体が合併したため、どこが中心なのか、イマイチ分からないというのが、正直なところです。市政の中心は旧須玉町ですが、位置的に市の中心にあり、交通の要衝となっているのは旧長坂町、避暑地として有名な清里高原は旧高根町、八ケ岳高原の表玄関で、小海線の起点となる旧小淵沢町など、いろいろな顔を持っています。
前の記事は、このうち主に須玉の津金地区についてのものでした。今回は、その時にも少し触れた三分一湧水(さんぶいちゆうすい)のある長坂について書きます。
長坂は、戦国武将・長坂氏の領地で、長坂郷と呼ばれていました。中央本線長坂駅から2kmほど南の場所が、長坂氏の居館だった長坂氏屋敷跡とされています。館が築かれた年代は定かではありませんが、長坂氏が、長坂郷に居住し始めたのは、永正元(1504)年以降と言われています。その頃の甲斐は、武田信玄の父・信虎(当時は信直)が、兄・信昌の死に伴い家督を継ぎ、武田宗家の統一を経て、甲斐統一に向けて動き始めた時代でした。長坂氏は、その武田氏の家臣で、中でも名前が知られる長坂光堅(釣閑斎)は、信玄・勝頼父子に仕え、特に勝頼には、補佐役として重用されました。1582(天正10)年の織田信長による武田攻めで、勝頼と共に自刃したとも、甲府で信長により処刑されたとも言われ、その最期についてはよく分かっていません。
武田氏滅亡後、甲斐国は織田・豊臣・徳川と支配が移り、江戸時代には甲州街道が整備され、江戸防衛の拠点として甲府藩が成立し、徳川一族や譜代大名が配置されました。その後、江戸中期に幕府直轄地となり、明治維新を迎えます。更に明治、大正には、輸出の原動力・生糸の一大拠点甲信地方と横浜港を結ぶため、横浜線や中央線など鉄道が次々開通。長坂にも1918(大正7)年、駅が開設されます。これによって、駅前に「丸中繭糸市場」と「丸共繭糸市場」という繭取引所が出来、長坂の町は繭取引所を中心にして、大正末から昭和初めまで大いに栄えました。
そんな長坂駅前のゲートウェイアーチには、「北杜市長坂町/歓迎 名水とオオムラサキの里」の横断幕がかかっています。また、旧長坂町のマンホールのデザインには、八ケ岳と三分一湧水、 国蝶オオムラサキが採用されています。
八ケ岳はもちろんですが、北杜市は、日本名水百選に3カ所が認定されるなど、日本屈指の名水の里で、その一つ「三分一湧水」は長坂にあります。また、オオムラサキの日本一の生息地だそうで、中央本線日野春駅(長坂)の北1kmほどの所には、北杜市オオムラサキセンターがあります。
長坂は、エノキやクヌギ、コナラなど、オオムラサキの生息環境に適した樹木が豊富で、夏には美しいオオムラサキと出合うことが出来ます。オオムラサキ自然公園の中にあるオオムラサキセンターでは、自然環境を計る基準とも言えるオオムラサキの保護と研究が行われています。
三分一湧水は、小海線甲斐小泉駅から歩いて10分ほどの雑木林の中にあります。その昔、湧き水を農業用水として使うため、下流にある三つの村に三等分するよう工夫したことから、その名があります。堰の真ん中には、三角石が置かれ、流れを三つに分けて、それぞれの地区へと流れていきます。
近くにある「三分一湧水館」では、三分一湧水と共に、日本名水百選となっている大滝湧水、女取湧水などの八ケ岳南麓高原湧水群の仕組みや水質、歴史について展示しています。併設の「農産加工物直売所」には地元の野菜や加工品が並び、「蕎麦処 三分一」では地粉で作る手打ちそばが味わえます。
「蕎麦処 三分一」は、地元の「三分一そば組合」のそば粉を使っています。この組合は、農薬や化学肥料を一切使わない栽培にこだわり、長坂町小荒間の休耕田だった約47haで、約25年前からそばを育てています。
そばは、7月に種をまき、10月から11月上旬にかけて収穫します。その間、9月から10月上旬には、白い花が畑を埋め尽くし、長坂の秋の風物詩と言える風景を見せてくれます。
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