赤い献灯提灯が印象的な内子の八幡様
ただ、内子の町並みがきれいなのは知っていたので、石畳の撮影が終わってから、市街地にも立ち寄りました。
伝統的建造物群保存地区の側に、町並駐車場がありますが、内子座にも入ってみたかったので、車は内子座の駐車場に置いて、歩くことにしました。もし伝建地区から内子座へ向かっていたら、中町通りを歩いたでしょうが、駐車場は本町通り側だったので、素直に本町通りを歩いたため、八幡神社を見つけることが出来たわけです。
内子座の駐車場から歩くと、八幡神社の手前に、「商いと暮らし博物館」があります。明治時代に創業した薬屋さんの建物を利用した歴史民俗資料館です。
で、その斜め前にあったのが、八幡神社です。住宅と住宅の間に挟まれた、小さな参道で、普通なら通り過ぎてしまったと思います。しかし、赤い献灯提灯が参道にたくさんぶら下がっていたので、それにつられて参拝してみることにしました。内子に行ったのは3月の下旬で、春祭か何かに当たったのかと思ったのですが、その後、検索していたら、皆さん、この提灯のことを書いていたので、いつも飾っているのかもしれません。
参道には、小さな石造りの太鼓橋があり、山門をくぐってお社の方へ入って行きます。太鼓橋の下は特に水は流れていませんでしたが、昔は水路が巡らされていたのかもしれませんね。内子の八幡神社は、1542(天文11)年6月6日に宇佐神宮から祭神を勧請し、1550(天文19)年、現在の六日市に社殿が造営されそうです。当時、内子は、戦国武将・曽根高昌の領地でした。曽根氏の祖は、近江源氏の一族で、源頼朝、義経、義仲らの従兄弟になる佐々木高綱と言われ、近江国愛知郡曾根が本拠地だったようです。高昌は、周防、長門、安芸、備後、石見、豊前、筑前7カ国の守護となり、西国随一の勢力を誇った大内義隆を頼り、周防に住した後、当時内ノ子と呼ばれていたこの地に移って来ました。
高昌は、内ノ子に入ると、周防国・泰雲寺の大功円忠大和尚が開いた護国山浄久寺に深く帰依。1533(天文2)年、第4世益応玄巨和尚の時に寄進をして、旧城廻村釜谷山の山麓に寺院を移築し、菩提寺としました。そのため、1556年に高昌が亡くなると、寺はその名をとって高昌寺と改称しています。八幡神社については、高昌の関与は不明ですが、八幡太郎の通称を持つ源義家を遠祖とする高昌のこと、自ら勧請してもおかしくはないでしょう。伊予はもともと、1063(康平6)年に源頼義が伊予守となったことを契機に、八幡信仰が拡大。各地に、頼義による八幡宮造営が伝えられています。また、その影響なのか、伊予国には、京都の石清水八幡宮が荘園領主となっている事例が多かったそうです。一方、この流れとは別に、南予地方では、地理的な関係から、八幡総本宮の宇佐神宮と深く結び付いていたようです。「関サバ・関アジ」と言えば、大分を代表するブランド魚ですが、これらの魚がとれるのは、大分県の佐賀関半島と愛媛県西端の佐田岬に挟まれた豊予海峡になります。この海峡、一番距離が近い所は、直線距離で12kmしか離れていません。当然、古くから往来があったことでしょう。佐田岬のある八幡浜市にも、もちろん八幡神社があり、これが実は、宇佐神宮の元宮とも言われています。八幡神社の創建は717(養老元)年と伝えられ、一方の宇佐神宮は725(神亀2)年の創建とされています。八幡神社によると、宇佐神宮は八幡神社の御分霊を奉戴して豊後水道を渡り、大分県奈多浜(現・杵築市奈多海岸)に上陸、景勝の地を求めて豊後、日向、肥後の各地を巡幸した8年の後、現在の宇佐市亀山に鎮座したといいます。
真偽は分かりませんが、いずれにせよ、八幡信仰は、古くから伊予の地に根付いており、内子の八幡様も、産土神として多くの人から崇敬されてきたことでしょう。現在の本殿は1803(享和3)年、中殿、拝殿は1808(文化5)年の建造とのこと。境内には、樹齢約350年と言われる、雌雄の大イチョウがありますが、私が行ったのは3月後半だったので、葉を全て落としていました。ちなみに、内子訪問の主目的の一つであった、石畳地区の屋根付き橋は、弓削神社の参道となっています。弓削神社の創建は1396(応永3)年と言われ、境内には椎の巨木が茂り、豊かな涌き水で周辺の水田を潤しています。氏子の人々は、橋を渡って、1日も欠かすことなく「日参り信仰」を続け、五穀豊穣と家内安全を祈願しています。
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