「白いろうそく」が作った豪商たちの屋敷群
青みがかった色が当たり前だったろうそくが、それまで見たこともないような乳白色に生まれ変わりました。この白いろうそくは、「晒ろう(白ろう)」と呼ばれ、電気のなかった時代には国内外で高級品として重宝されました。
県都・松山から北西へ約40km。四方を山で囲まれた盆地に、ひっそりと佇む内子町。江戸後期から明治にかけて、木ろうと和紙の生産で栄えた町です。
木ろうとは、ウルシ科の落葉高木ハゼの実をしぼって作るろうそくの原料です。江戸時代には頭髪を結う際のビンツケに用いられた他、近年では化粧品や色鉛筆などの原料としても利用されていました。
ハゼノキは、江戸時代に琉球王国から持ち込まれ、九州、中国、四国など西日本では、それまで木ろうの原料だったウルシからハゼに切り替わったようです。
伊予国の大洲藩で製ろうが始まったのは、安芸国(広島県)可部から、3人のろう職人を呼んでからで、藩内の内子でも、ろうがつくられるようになったと伝わります。内子の木ろう生産に、一大変革が訪れるのは、明治時代中期。維新後、激減していた木ろうの需要ですが、活路を海外に見いだしました。
引き金となったのは、「伊予式箱晒し法」です。芳我弥三右衛門は、ろうそくのしたたりが、水面に落ちて白くなったのにヒントを得て、研究の末にこの製法を発見したといいます。
彼が開発した技術は、精製脱色のみならず、晒ろうの量産も可能にしました。そのため、日本はもとよりヨーロッパを中心に、世界に向けて晒ろうを輸出することが出来るようになりました。
やや固く、融点の高い晒ろうの上品な灯火は、海外でも絶大な人気を誇り、内子の街は大いに繁栄しました。最盛期は、1900年代初頭(明治30年代後半)です。晒ろう生産は、愛媛県が全国1位を独占、内子町はその70%を占める一大晒ろう生産地となり、全国に名をはせました。
しかし、この栄華は短く、大正に入るとパラフィンの普及、石油の輸入、電灯の導入によって需要が激減。内子町の晒ろう生産は、大正10年頃までにほぼ消滅してしまいました。
かつての四国遍路と金比羅旧街道のゆるやかな坂道に沿った約600mにわたる八日市護国地区には、当時の面影を残す家屋や蔵など75棟が集中して残り、1982(昭和57)年に、国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されました。
白漆喰や、地場産である内子黄土を用いた淡い黄色の漆喰壁、目地の漆喰が盛り上がったなまこ壁など、重厚でかつ優しい表情をした商家や民家が軒を連ねます。中でも際立った存在は、ろう商・本芳我家や上芳我家の建物。豪壮な建物内部と共に外壁の多彩な漆喰彫刻からは、一族のかつての繁栄をうかがい知ることが出来ます。
内子の郷愁を呼ぶ町並みの中に、1916(大正5)年に、大正天皇の即位を祝って創建された芝居小屋・内子座があります。木造2階建ての瓦葺き入母屋作り、純和風様式の本格的な芝居小屋で、今も芸術文化活動の拠点として活用されています。
また、内子町の郊外には、屋根付き橋が五つ残っています。その一つ、弓削神社の太鼓橋は、社殿を囲む弓削池にかかる屋根付き橋で、神社への参道となっています。弓削神社の近くには、「石畳東のシダレザクラ」と呼ばれる一本桜があり、開花時には多くの人が花見に訪れます。この木は樹齢350年とされ、高さは8m、東西に約15mもの枝を伸ばす、立派なシダレザクラです。
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