行基上人の開基、一休禅師の開眼によるレジェンド地蔵
その後、この地蔵菩薩は、近在の人々や東海道の旅人の信仰も集め、周辺には門前町が形成され、集落そのものが「関地蔵」と呼ばれるようになりました。地元には、「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」という俗謡もあるそうです。地蔵院を開いたのが、東大寺大仏造立という国家プロジェクトのリーダーを務めた行基とあらば、そんな俗謡が伝わるのもむべなるかなという感じでしょうか。
それから700年ほど時が経って、地蔵菩薩の修繕が行われ、改めて開眼供養をしたのが、各地を雲遊していた一休禅師だったそうです。1452(享徳元)年のことと伝えられています。日本最古はもとより、行基上人の開基で、一休禅師の開眼となれば、思い切りレジェンド地蔵です。
地蔵院の開基から、1000年ほど時代が下った1797(寛政9)年発行の『東海道名所図会』には、次のように書かれています。修繕をした地蔵の開眼供養をしてほしいと考えていた村人たちが、関宿を通りかかった一休和尚に頼んだところ快く引き受けてくれました。しかし、一休和尚は「釈迦はすぎ 弥勒はいまだ いでぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまいました。これに怒った村人たちは別の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じました。あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったといいます。
一休さんと言えば、とんち話で有名です。しかし、それは江戸時代に作られた話です。一休禅師が再興して晩年を過ごした酬恩庵一休寺の田邊宗一住職によると、「実際には破天荒な逸話が多い人です。応仁の乱で世の中が乱れ、まともなことを言っても通じない時代に一風変わった言動を取ったことが、後世の物語につながったのでしょう」とのことで、この関地蔵の開眼もホントの話かもしれません。
三重県のウェブサイトにある「伝えたい三重のおはなし」の中にも、「関の地蔵と一休和尚」として掲載されているので、興味ある方は覗いてみてください。
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/minwa/hokusei/seki/index.htm
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