当時の一流アーティストが技を競った大崎八幡宮と雀踊り

大崎八幡宮
以前の記事(戦国武将「独眼竜」政宗が築いた城下町)でも、少し触れましたが、仙台城下町の北西端に、1607年、伊達政宗が創建した大崎八幡宮があります。内外とも漆塗・胡粉下地に彩色を施し、彫刻・金具に飾られ、絢爛たる雰囲気を表す桃山建築の傑作で、国宝に指定されています。

大崎八幡宮によると、もともとは平安時代に、坂上田村麻呂が、東夷征伐の武運長久を祈念すべく、東北統治の鎮守府胆沢城(現・岩手県奥州市水沢)に、武門の守護神である宇佐八幡宮を勧請し、鎮守府八幡宮を創祀したのが始まりだそうです。その後、室町時代に奥州管領大崎氏が、自領(現・宮城県大崎市)に遷祀し守護神としたことから、大崎八幡宮と呼ばれるようになったとのことです。そして、大崎氏滅亡後、伊達政宗が、居城である玉造郡(現・大崎市)の岩出山城内に、大崎八幡宮の御神体を遷し、更に仙台開府後、仙台城の乾(北西)の方角に当たる現在地に祭ったとしています。

ただ、宮城県神社庁によると、大崎市にある大崎八幡神社は、1057(天喜5)年、前九年の役において、源頼義・義家親子が、石清水八幡を祭って戦勝を祈願。これに勝利したことから、凱旋途中に、胆沢と栗原、そして大崎の3カ所に石清水八幡を勧請し武具等を奉納したことが起源としています。

もっとも、これもちょっと辻褄が合わないところがあって・・・。例えば、1057年に頼義は計略をもって安倍頼時討伐には成功しますが、頼時の跡を継いだ貞任が更に勢いを増し、戦況は一向に好転しませんでした。状況が変わったのは、1062(康平5)年に出羽清原氏が官軍側に与してからでした。同年8月16日、栗原郡営岡(たむろがおか)で合流した源氏(3000兵)と清原氏(1万兵)は、翌17日に安倍軍の拠点の一つである小松柵へ到達。それからわずか1カ月で安倍氏は滅亡してしまいます。

大崎八幡宮

また、宮城県神社庁は、小松柵を大崎市田尻町西北部の北小松にあるとしていますが、研究者などによると、岩手県一ノ関市の磐井川沿いにある萩荘付近と推定されているようです。なので、時期も場所もちょっと違うかな・・・と。

というわけで、ちょっと訳が分からなくなってきましたが、大崎市の大崎八幡神社は、奥州管領となった大崎直持が、1361(正平16)年に、自領(現・宮城県大崎市)に社殿を建て、大崎家の氏神、及び陸奥大崎5郡の総鎮護としたということになるようです。ちなみに、大崎氏は、河内源氏の流れをくむ足利一門で、先祖の足利家氏が領していた下総国の大崎(現・千葉県香取市大崎)に因んで、直持の時から苗字を大崎に改めたそうです(元は足利氏から分家した斯波氏)。そのため、遠祖であり、石清水八幡宮(京都府八幡市)で元服し、八幡太郎の通称を持つ源義家が勧請した大崎八幡神社を篤く崇敬したのでしょう。

大崎八幡宮

相当横道にそれましたが、そんな歴史を持ち、北野天満宮と共に日本最古の権現造として知られる大崎八幡宮は、政宗が、京や紀州から一流の大工を呼び寄せ、建築に当たらせました。社殿は黒漆塗りで、彫刻が社殿の各所に見られます。

これらの彫刻は、「天下無双の匠人」といわれた刑部左衛門国次が担当しました。刑部左衛門国次は、左甚五郎のモデルと言われる紀州根来の名工で、特に日光東照宮の「眠り猫」や「三猿」は有名です。大崎八幡宮の欄間にも、鶴や鳳凰、孔雀、麒麟、白虎、竜などの豪壮で神聖な生物と共に、「眠り猫」と同じ構図の「にらみ猫」の彫刻が施されています。

また、拝殿内部には、狩野派の絵師佐久間左京のよる唐獅子の障壁画や大虹梁の青龍、石の間の格天井には53種の草花が描かれています。佐久間左京は、京都で活躍していた青年時代に、秀吉に従って伏見城にいた政宗に召し抱えられ、仙台藩最初の御用絵師となりました。仙台城本丸、松島瑞巌寺、大崎八幡宮などの障壁画を描く一方、大坂夏の陣に出陣するなど、武人としても活躍したそうです。

仙台城址
1601(慶長6)年、政宗は、徳川家康の許しを得て千代に居城を移し、城を大規模リフォーム。同時に城下町も建設し、鬼門とされる乾の方角に大崎八幡宮を遷祀するわけです。そして、仙台城と改めた、ほぼ新築の城が完成し、1603(慶長8)年に岩出山の城からの引っ越しも完了。実は、それを祝う宴席で、今に伝わる伝統芸能が誕生します。

「雀踊り」です。元は、堺(現・大阪府堺市)から来ていた石工たちが、即興で披露した踊りが始まりと言われています。伊達家の家紋が「竹に雀」で、はね踊る姿が餌をついばむ雀の姿に似ていると、いつの頃からか「雀踊り」と名付けられ、長く伝えられることになりました。昭和になっても、石切町(現・仙台市青葉区八幡町)の石工たちによって踊り継がれ、大崎八幡宮の例祭では「雀踊り」が奉納されていました。しかし、徐々に継承する人が少なくなり、ほぼ途絶えたような状態になってしまっていたそうです。

そんな中、1961(昭和26)年に仙台市立第1中学校の校長が、石切町の住民の記憶をもとに踊りを復元。63年には、同校に「仙台雀踊り保存会」が結成され、文化祭や地域の行事などで踊るようになりました。その後、85年に始まった「仙台・青葉まつり」に、同校生徒が参加して仙台雀踊りを披露。

雀踊り

更に、第3回仙台・青葉まつりでは、正調雀踊り伝承者らの指導の下、仙台・青葉まつり協賛会が現代風にアレンジした新・仙台すずめ踊りを発表。これは、自由に跳ねながら踊る「ハネすずめ」と、優雅に舞う「舞すずめ」の二つがあり、翌年からは「仙台すずめ踊り大賞(コンテスト)」も開催されるようになりました。そして年々、参加する踊り手が増え、今では100を超える連があり、杜の都を代表する郷土芸能として、青葉まつりを始め、四季を通じて各地で踊られるようになっています。

雀踊り

私が、大崎八幡宮に参拝したのは9月だったんですが、たまたま例大祭に当たっていたようで、八幡宮前の県道では、すずめ踊りが始まっていました。今まで見たことがなかったので、それが正調雀踊りだったのか、新・仙台すずめ踊りだったのか、確証はありませんが、「ハネすずめ」と「舞すずめ」に分かれていたので、たぶん「新」の方だと思います。

大崎八幡宮


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