戦国武将「独眼竜」政宗が築いた城下町
最初の停車場は「青葉通一番町」ですが、ここは駅から歩いて来られるので、通過してもいいでしょう。次は「晩翠草堂前」。『荒城の月』の作詞で知られる土井晩翠が、晩年の3年間を過ごした住居が、当時のまま保存されています。
るーぷるはこの後、少し進路を南にとり、広瀬川にかかる霊屋橋を渡って「瑞鳳殿前」まで行きます。バス停を降りると、藩祖・伊達政宗が、自らの終焉の地と定めた森が広がり、その奥に政宗が眠る瑞鳳殿があります。
瑞鳳殿がある経ケ峯歴史公園は、東日本大震災で100基以上ある石灯籠のほとんどが倒壊し、石垣も崩れました。が、政宗が眠る「瑞鳳殿」を始め、2代藩主忠宗の霊屋「感仙殿」、3代藩主綱宗の霊屋「善応殿」とも、建物の被害はほとんどありませんでした。
瑞鳳殿は、豪華絢爛な桃山様式の廟建築でしたが、戦災により焼失。現在の霊屋は1979年に再建されたもので、2001年には仙台開府400年を記念して大改修工事が行われ、柱に彫刻獅子頭、屋根に竜頭瓦を復元し、創建当時の姿が甦りました。
瑞鳳殿に続いては、伊達62万石の居城、仙台城(青葉城)です。城とは言え、天守閣はありません。将軍家康の警戒を避けるためだったと言われますが、標高130mの山城だったので、どっちみち天守閣など不要だったかもしれません。天守台に立つと、気分はまさに天下取りの野望に燃えた政宗そのもの。眼下には仙台市街はもちろん、晴れていれば太平洋まで望めます。戦国時代を舞台にしたアクションゲーム「戦国BASARA」のヒットにより、一時、政宗を始めとした戦国武将が、若い女性の間でブームになりました。こうした「歴女」たちの聖地の一つが、この仙台城で、政宗公騎馬像の前で写真を撮る歴女たちの姿が多く見られました。
ところで、この政宗像、よく見ると、両目が開いています。独眼竜政宗では?と疑問に思いますが、絵や彫像は全て両目を入れるようにとの遺言によるものだそうです。
そんな歴女のヒーロー政宗が、1607年に創建したのが仙台城下町の北西端にある大崎八幡宮。内外とも漆塗・胡粉下地に彩色を施し、彫刻・金具に飾られ、絢爛たる雰囲気を表す桃山建築の傑作で、国宝に指定されています。2004年には約5年にわたる社殿の保存修理工事が完工、政宗が創建した当時の秀麗な姿が甦っています。
大崎八幡宮を出た「るーぷる仙台」は、定禅寺通を通って仙台駅へと向かいます。この通りは杜の都のシンボル的存在で、真ん中の緑道には、イタリアの有名彫刻家の作品が並び、まるで野外ギャラリーのような趣となっています。バスを下りて散策してみてもいいでしょう。
ところで、仙台には、さまざまな伝統工芸や名物があります。さらっと紹介しておきます。
堤焼:堤焼は、仙台城下北辺の警固のため配置された足軽衆の町・堤町で、足軽の内職として始まったことからこの名があります。開窯は1694(元禄7)年と、300年以上の歴史を持ちます。代々この業に従事していた針生家は、仙台藩の御用窯を務めていました。現在は5代目の針生乾馬さんが、その伝統を守っています。写真は堤焼の陶土と登り窯。松川だるま:やけに派手なだるまです。しかも青い・・・。両目は既に黒いし、眉には毛がついています。この一風変わっただるまは、天保年間(1839 - 44年)、伊達藩士・松川豊之進が創始したものと言われます。現在は、松川の弟子であった本郷家(本郷だるま屋)が継承し、そこから10代目となる本郷久孝さんが、9代目けさのさん(写真)の頃から手伝っていたお嫁さんの尚子さんと共に松川だるまの製作を続けています。
堤人形:堤人形は、堤焼を母体に誕生したと言われる土人形で、西の伏見(京都)、東の堤と、全国の土人形の二大源流とされます。顔料をふんだんに使った鮮やかな彩りが特徴。歌舞伎・浮世絵風の人形で、全国的に名声を博しており、特に三番叟が有名。現在、江戸期からの堤人形の流れをくんでいるのは芳賀強氏の工房だけとなっています。
仙臺四郎:江戸末期から明治35年頃に仙台に実在した人物。言葉はほとんど話せず「四郎馬鹿(シロバカ)」と呼ばれ、毎日、町を徘徊していました。が、四郎が立ち寄る店は必ず大入り満員、商売繁盛となり、彼が抱く子どもは丈夫に育つということから、福の神として親しまれました。こうした伝説から、今でも仙台では四郎の写真などを掲げ、商売繁盛を願う所が多いといいます。青葉通と広瀬通の間にあるショッピング・アーケード内の三瀧山不動院は、仙臺四郎を安置しており、その参道(通路)に各種仙臺四郎グッズを扱う店もあります。
ずんだ餅:仙台では古くから、煮て柔らかくした枝豆をつぶして砂糖を混ぜ、餅にまぶした「ずんだ餅」が作られてきました。独特の色合いと甘み、そしてつぶつぶの食感で人気。「ずんだ」は枝豆を打って作ることから豆打(ずだ)がなまったという説と、伊達政宗が出陣の時に用いた陣太刀(じんだとう)で豆をつぶして食したことから、陣太がなまった、という二つの説があります。
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