高梁川の舟運で栄えた中国山地の城下町

高梁川は岡山・鳥取県境の中国山地に源を発し、新見、高梁、総社の3市を経て倉敷市で瀬戸内海に注ぎます。高梁はその中流部、明治維新まで約630年にわたり、城下町として栄え、また高梁川の舟運により山陽と山陰を結ぶ物資の集散地として賑わいました。

高梁川の北岸にそそり立っている臥牛山の山頂近く、標高約430mの辺りに、国の重要文化財・備中松山城があります。現存する山城としては、日本一高い場所に位置しています。臥牛山は、中国山地の端にあたり、古くから大松山と呼ばれていました。

1240(仁治元)年、ここに相模の豪族秋庭氏が砦を築きました。その後、戦国時代には毛利、尼子、織田など乱世の代表的な武将たちが、中国制圧の拠点として居を構えました。現在の城郭は江戸中期、1681(天和元)年に水谷氏によって築かれました。

水谷家は嗣子がなく断絶しましたが、その時、大石内蔵助が、浅野内匠頭の代理として城を受け取りに来ています。それからわずか数年後、かの赤穂事件により内匠頭は切腹、内蔵助は赤穂城の明け渡しに立ち会うことになります。内蔵助の供をして松山城に来た者の中には四十七士に名を連ねた神崎与五郎、武村唯七らがいたといいます。

臥牛山の南麓、現在高梁高校となってる場所を御根小屋といいました。松山城は山城であるため、藩主は山麓に居を構え、そこで政治を執りました。城下町はこの御根小屋を中心に形成され、市街地東部の秋葉山・愛宕山のふもとに、階段状に武家屋敷が、その下の高梁川沿いに町家が造られました。

今も往時の姿は、格子戸の残る商家や武家屋敷など、その家並の中にしのぶことが出来ます。高梁川にかかる方谷橋を渡って、小高い方谷林公園から対岸を見渡すと、商家のたたずまいがはっきりと分かります。また、高梁川に流れ込む紺屋川筋の町家や、町並み保存の風致地区になっている石火矢町の典型的な屋敷町のたたずまいなど、郷愁を呼ぶ家並があちこちに点在します。

また、高梁市成羽町は、備中神楽発祥の地とされています。文化文政の頃、神官で国学者でもあった成羽出身の西林国橋が、『古事記』『日本書紀』の神話をもとに「天の岩戸開き」「大国主命の国ゆずり」「素蓋鳴命の大蛇退治」という演劇的要素の高い神代神楽を創作しました。これが備中地方の秋祭りに欠くことの出来ない民俗芸能として育てられ、現在では、国の重要無形文化財に指定されています。写真は、高梁市中井町で備中神楽の面を打っていた上田博さんで、備中神楽面には主なものだけでも30種類もあると聞きました。

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高梁市の中心部から北西へ25kmほど行った所に、吹屋の集落があります。ここは、赤瓦で統一された、非常に美しい町並みが続きます。以前のブログで取り上げているので、併せて、そちらも読んでみてください。

「静かな山間にたたずむ赤い町並み」

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