近江聖人の古里にある「白鬚さん」の湖中鳥居
湖西の中心都市・高島市を初めて訪問したのは、今から20年前のことです。この時は、伝統工芸の高島扇骨を取材しました。
高島市の安曇川町は、湖西第一の大河・安曇川流域の町です。高島市一帯は、古くから開けた土地で、北陸や若狭と京畿を結ぶ交通の要衝にありました。『延喜式』には、大津から船で高島に至る運賃が記載され、そこから先は陸路をとったとあります。
また、日本海ルートで入る大陸文化の影響も色濃く、こうした文化の通り道であったことを反映してか、高島市には、古くから伝わる工芸品がいくつかあります。高島硯、雲平筆、それに取材した高島扇骨です。350年の伝統を持つ扇骨は、安曇川町西万木(にしゆるぎ)を中心に生産され、現在、全国シェアの約90%を占めています。大陸との交易の開港地北陸と京を結ぶ要衝にあったこと、また雪に覆われる冬の間の農民の副業に適していたことなど、地理的、生活的条件から必然的に発展してきました。
起源については、都の貴族がこの地に隠棲して作り始めたとか、武士の落人が生活の糧を得るため始めたとか、諸説があります。しかし、そもそものきっかけは江戸初期、安曇川流域に住んでいた長谷川玄斎という医者が、度重なる川の氾濫で農民が苦しむのを見かね、堤防に竹を植えたことに始まります。
後年、この竹に目をつけた戸島忠兵衛という人物が、冬の農家の副業として導入。自ら仲買人となって販路開拓に努め、農民に利益をもたらせようとしました。また、幕末には名古屋で高度の技術を学んで帰った井保久吉や、その甥で、京阪に販路を求め、ついには扇子の輸出にまでこぎつけた井保寿太郎など、多くの先人たちの努力により、扇骨産地としての形態が整ったのです。
安曇川は近江聖人・中江藤樹の生地ですが、藤樹のみならず、この地方は古来、人徳豊かな土地柄であったのでしょう。扇骨の工程は親骨が18、仲骨が16と、非常に煩雑。竹は節間40cm以上の3〜5年生のものを使います。これを用途にあった長さに切り、扇骨用に細く割ります。後は親骨と仲骨に分けられ作業が進みます。なかでも技術のいるのは、形を整えるために幾種類もの包丁(鉋の刃)を使って仕上げる工程。
これが終わると漂白され、冬で1週間、夏で3日ほど白干(乾燥)をします。この時、均一に削られた竹はまるで花のようにまとめられ、美しい幾何学模様を見せてくれます。乾燥後は再度削り直し、麿きをかけます。そして最後に親骨と仲骨を合わせ、要を打ち込んで扇骨となります。
出来上がった扇骨は80%が京都に出荷され、その他大阪、名古屋などで美しい日本扇子となります。地元でも35年ほど前から、当時の若手が、自分たちで最終仕上げまでするようになり、紙を張り、絵を描いて、近江扇として販売もしています。
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それから10年ほどして、再び高島を訪問しました。この時は、近江最古の大社・白髭神社が目的地でした。地元では、「白鬚さん」とか「明神さん」の名で広く親しまれ、また湖中に朱塗りの大鳥居があることから「近江の厳島」とも呼ばれる神社です。湖中鳥居について、同社では「大昔から白鬚明神前の湖中には鳥居があったと伝えられ、室町時代の屏風絵『近江名所図』や、江戸時代に描かれた当社の縁起絵巻にも湖中の鳥居が描かれている。鳥居が湖中に建つ理由は諸説あるが、実際にあったという証拠もない。古来波打ち際に鳥居が見え隠れしていたとも、天下異変の前兆として社前の湖中に石橋や鳥居が突然姿を現したとも言われる伝説の鳥居である」としており、現在の鳥居は、1937(昭和12)年に大阪の薬問屋小西久兵衛さんが寄進したものを、81年に琵琶湖総合開発の補償事業として再建されたものだそうです。
琵琶湖の中に大鳥居が建っているだけでもフォトジェニックなんですが、鳥居の向こうには、沖島や対岸の湖東・近江八幡が絶妙のバランスで見えています。昼、月明かり、夜明け前と、色がさまざまに変化するのも美しく、特に、対岸から昇る朝日と鳥居の組み合わせは、絶景感を増します。
で、白髭神社での撮影を終え、レンタカーを返すため新幹線駅の米原へ向かっている途中、「日本一周ヒッチハイク」「敦賀方面」と書かれたダンボールを持ってスケボーで前進するコスプレの若者を発見。面白そうな子だったのと、敦賀方面というのに反応して、途中まで車に乗せてあげることにしました。車中、彼の話を聞きながら車を走らせていると、「敦賀まで45km」の標識が、あっという間に「敦賀まで21km」に。むむっ、これは、敦賀まで行けちゃうかもと思い、マキノの道の駅に車を入れ、敦賀のSNさんに電話。すると、最終目的地・米原までは、敦賀から高速を使えば30分という話。では、このまま行っちゃえと敦賀まで送ることにし、ついでに彼にパリ丼(ヨーロッパ軒敦賀本店で念願のパリ丼を食す)を食べさせながら、私もまだ食べていない朝食をヨーロッパ軒で、と目論みました。
敦賀に着いてからも、ヨーロッパ軒ってどこでしたっけ?とSNさんに聞く、手のかかる人になりつつ、何とか目的ににたどり着きましたが、開店は1時間後の11時、しかもそれから食べていると、ガソリンを入れて米原に戻るのはぎりぎりだと判断。結局、コスプレヒッチハイカーとはここで別れ、一路米原へと向かいましたが、パリ丼食べたかった・・・。
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