東海随一の紅葉の名所・香嵐渓と足助の町並み
この時は、表紙にまつわるエッセーも書いて頂いたのですが、その中で前田さんは、かつては奥三河というと、「悪路ばかりが印象に残っていて、平凡な山村風景に心を引かれるということはなかった」と記しています。しかし、ある機会を得てから、数多くこの地を訪れるようになったそうです。そして、「今まで、まったく見栄えのしないと思っていた奥三河の風景が、非常に新鮮なものに見えるようになってきた。それは、そこに日本の山村風景の原点のようなものが潜んでいることを、感じとったからである」と書いています。
愛知県は大きく、尾張地方と三河地方に分かれます。そのうち三河の北東部にあたる地域が「奥三河」になります。現在の行政区分で言うと、新城市(南設楽郡)と北設楽郡、そして豊田市北東部(旧東加茂郡・足助地区や旭地区など)が該当します。
で、これまでこのブログ(私のルーツ旅その二 - 新城編など)で何度か触れていますが、我が家の家譜でたどれる確実な祖先というのは、私から数えて14代前の鈴木重勝という人で、今の新城市を本拠としていました。三河には、穂積姓鈴木氏の本宗家・藤白鈴木氏の流れを汲む三河鈴木氏という系統がありますが、我が家の祖先はその流れの一つのようです。
その三河鈴木氏の祖は鈴木重善で、甥である藤白鈴木氏11代目当主重家とその弟重清が、源頼朝と対立して奥州へ逃れる義経に従って行動していため、その後を追う途中、三河国矢並(現在の愛知県豊田市矢並町)に来たところで足を痛め、逗留して回復を待つ間に、義経を始め重家・重清も討死にしてしまい、奥州行きを諦め、そのままこの地に永住することになったと伝えられます。そして、重善の後裔は、矢並を拠点に勢力を広げ、重善から数えて8代目の重就の子どもが足助(兄・忠親)と酒呑(弟・重時)に分かれ、更に酒呑系から寺部と則定へと分かれていったようです。これらの土地は全て、現在の豊田市になります。
我が家の祖先である鈴木重勝は、酒呑系だったようですが、重時以降、どのようにして新城方面へ勢力を広げていったのかは分かりません。一方、兄の忠親を祖とする足助鈴木氏は、忠親の後、重政、重直、信重、康重と5代が続き、家康の祖父である松平清康の時に松平氏の配下となり、徳川家康の関東移封に従い康重も関東に移りましたが、康重はどこかの段階で徳川から離れ浪人になったと言われています。
ところで、この足助は、尾張や三河と信州を結ぶ伊那街道の拠点として栄え、特に重要な交易物であった塩が、ここ足助で積み替えられ、「足助塩」とか「足助直し」と呼ばれました。また明治以降は飯田街道と呼ばれ、中山道の脇往還として庶民の生活にとって重要な街道となっていました。
足助の町並みは、戦国時代には原型が形成され、江戸初期には今のような町割りが出来上がりました。建物は、1775(安永4)年の大火後に、防火のために漆喰で軒先まで塗り固めた塗籠造りの町家が建ち並んだのが、今に残っています。妻入りや平入りの変化に富んだ家並みが約2kmにわたって続き、愛知県で初めての国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
この足助の古い町並みが一望できる標高301mの真弓山に、1993(平成5)年、足助城が復元されました。足助城の築城時期は定かではありませんが、戦国時代に足助鈴木氏が築いたとされています。で、先に書いたように、足助鈴木氏5代の康重が、徳川家康に従って関東へ移った段階で、足助城は廃城となりました。
また、足助には、平安時代に足助家初代・重長が築いた飯盛山城もありました。飯盛山は、紅葉の名所・香嵐渓の中心にある標高254mの山で、愛知130の山にも選定されています。
その足助氏の居館跡には、1427(応永34)年に創建された曹洞宗の古刹・香積寺があります。香嵐渓のモミジは、 1634(寛永11)年に、香積寺11世の三栄和尚が経を唱えながら植えたのが始まりとされ、長い間、「香積寺のもみじ」と呼ばれていました。それが、1930(昭和5)年、当時の住職と町長が、大阪毎日新聞社の本山彦一社長が来町した際に命名を求め、香積寺の「香」と巴川を渡る爽涼とした嵐気の「嵐」から、「香嵐渓」と名付けられたそうです。
そして現在では、秋になると約4000本のもみじが、赤や黄色に染まり、東海随一の紅葉の名所となっています。例年の見頃は、11月中旬から下旬で、この時期、参道から香積寺まで続く「もみじのトンネル」や、ライトアップが美しい「巴橋」などの絶景スポットが、訪れる人々を魅了します。
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