千本桜と菜の花畑のコントラストが見事な権現堂桜堤
昨日のブログ(日光街道第2の宿・草加と「おくのほそ道」)は、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」という江戸時代の地口から始めましたが、実はこの地口、後に「幸手、栗橋、まだ先よ」と続けることもあります。
日光街道は、日本橋を起点に第1の宿・千住から草加、越谷と続き、更に粕壁(春日部)、杉戸を経て、幸手宿、栗橋宿へ通じます。江戸時代は、東京と埼玉、それに神奈川の一部(川崎、横浜)を含むエリアが武蔵国となっていて、次の宿場・下総国中田宿(現・茨城県古河市)との間には関所が置かれていました。
日本橋から千住までは約9km、千住からは草加までが約9m、越谷までは約16kmなので、日本橋〜越谷は約25kmとなります。一方、日本橋から幸手までは越谷の倍となる約50km、栗橋までは55kmほどあり、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」の後に、つい勢いで「まだ先よ」と付け足したくなったやつがいたんでしょうね。栗橋宿は、利根川対岸の中田宿と、2宿で1宿の合宿(あいしゅく)の形になっていました。ここの利根川には、軍事上の守りの観点から架橋されず、渡船場が置かれていました。渡し場は、房川渡しと呼ばれ、関所(房川渡中田御関所)が設置されていました。中田の名が付いているように、当初は中田宿側に置かれましたが、その後、栗橋側に移設され、通称「栗橋関所」と呼ばれるようになりました。
もう一つの幸手宿は、日光街道と共に、将軍が日光社参の際に使用した日光御成道が合流する地点でもあり、重要な宿場となっていました。1843(天保14)年の『日光道中宿村大概帳』によると、幸手宿の長さは585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3937人、本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ケ谷宿に次ぐ日光街道3番目の規模を誇っていました。
その幸手と言えば、関東屈指の桜の名所・権現堂桜堤で有名です。
権現堂堤が初めて築かれたのは、戦国時代の1576(天正4)年頃と言われています。天正4年というと、織田信長が安土城を築城した年のこと。
その頃に権現堂を流れていたのは、渡良瀬川の本流だったようです。その後、江戸時代になって、「坂東太郎」こと利根川を東に移すことになり、現在の古利根川から渡良瀬川へ直線上にショートカットする新川通を開削し、これを利根川本流にしました。そのため権現堂の辺りは利根川本流が流れていた時期がありました。しかし、権現堂を経由せず、江戸川方面へ流れる逆川が開削されて本流ではなくなり、更に大正時代には利根川とは完全分離されます。現在、権現堂川と呼ばれているのは、中川から引水する農業用水路で、中川との結節点は、多目的調節池「行幸湖(権現堂調節池)」となっています。
堤の桜は、1920(大正9)年、3000本の苗木が約6kmにわたって植えられたのが最初です。しかし、太平洋戦争時に燃料としてほとんどの桜が伐採されてしまいました。その後、1949(昭和24)年に、栗田亀蔵町長や公民館の職員らによって、前と同じ3000本の桜の苗木が植えられ、現在、そのうちの1000本が残り、毎年見事な花を咲かせています。
権現堂桜堤は、周辺に菜の花が植えられており、千本桜のトンネルと広大な菜の花畑のコントラストが多くの人を引きつけます。「幸手桜まつり」期間中は、100軒ほどの露店が並びますが、堤を挟んで菜の花畑とは逆側になるので、全く邪魔になりません。
ちなみに桜が終わっても、アジサイ、ヒマワリ、コスモス、曼珠沙華、スイセンなどが植えられ、堤は季節ごとに美しい花で彩られます。これらは、NPO法人幸手権現堂桜堤保存会を組織した市民ボランティアによる活動で、花の植栽以外にも、清掃や危険箇所の点検と補修などを実施しているそうです。
ところで我が家は、妻の実家が古河市にあり、義姉が久喜市に住んでいるため、よく車で権現堂を通ります。ある時、古河から久喜へ行く途中、権現堂を抜けて幸手市街地に入ったところで、ヲタクっぽい若者がぞろぞろ歩いているのを見掛けました。当時、幸手の隣にある鷲宮が、アニメ『らき☆すた』で盛り上がっていると聞いていたので、その流れかもと思ったのですが、実は『らき☆すた』の原作者・美水かがみさんは幸手市出身とのことで、幸手市も鷺宮町(現・久喜市)と同様、アニメの聖地化しているようです。
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