大船渡屋台村をきっかけに生まれたつながり

大船渡屋台村

大船渡には、震災から2カ月後の5月に一度入りましたが、本格的な取材は、その年の暮れ、12月20日に大船渡屋台村が開業してからのことでした。飲食店20店舗が軒を連ねる「大船渡屋台村」のオープニング・セレモニーは、大船渡市大船渡町にある屋台村中央部のイベント広場で開かれ、関係者や来賓約100人が出席しました。

大船渡市は岩手県南部、太平洋に面し、北は釜石市、南は陸前高田市に挟まれています。大船渡港は岩手県内最大かつ最重要港湾で、市街地は大船渡町の大船渡駅前周辺と、盛町の盛駅西口周辺に展開、行政・司法の中心は盛町、交通・商業の中心は大船渡町でした。東日本大震災では、大船渡湾に面した大船渡町が最も被害が大きく、やや内陸部の盛町も盛川をさかのぼった津波により多くの建物が損壊しました。

大船渡市街地(2011年5月17日)

大船渡地区では、大船渡飲食店組合に加盟する60店のうち57店が、津波で流されてしまいました。新たに店舗を再開する資金もなく、将来の見通しが全く立たない中、飲食店組合の及川雄右組合長は、皆が力を合わせ、屋台村で再起を図ることを計画。経営コンサルタントを招請し、北海道帯広市の「北の屋台」や青森県八戸市の「みろく横丁」、山形市の「ほっとなる横丁」などを視察し、構想を具体化させました。

屋台村のオープンに当たって、大船渡屋台村有限責任事業組合の及川雄右理事長は、「オープンが最終目的ではなく、屋台村を通して真っ暗な大船渡に明かりをともし、市民が気軽に足を運び、コミュニケーションを取りながら大船渡を元気にしていくのが、大船渡屋台村の役割。これからの方が大事だと思っています」と、話していました。


私としては、大船渡屋台村のオープンによって拠点が出来たこと、また屋台村支援の窓口となった磯谷憲一さんや、屋台村店主の方たちと知り合えたことで、大船渡へ伺う回数が、自然と増えました。その一人、佐藤圭二さんは、屋台村では泡盛と沖縄料理の店「ゆめんちゅ」を経営していました。

「実は4月には東京に戻るつもりだったんですよね」。最初に「ゆめんちゅ」に入った時、圭二さんは、そう話していました。「バンド活動をしながら、7年ほど東京で働いていたんです。2007年にこちらへ帰って来て、4年間、会社勤めをしていました。でも、東京で働いていた居酒屋の方から、また一緒にどうだと誘われ、2月末で退職して東京へ戻る準備をしていたんです。ところが、3月11日にあんな津波が来て……」。

その後しばらくは、あちこちから届く支援物資の受け入れを手伝っていました。そんな中、弟と「地元で居酒屋でもやれたらいいな」と話し合い、震災2カ月後ぐらいから、物件や土地を探し始めました。しかし、建築制限がかかっている中では、簡単に見つかるはずもありませんでした。そうした折、大船渡で屋台村構想が立ち上がったことを知りました。ただ、新しく店を始めようとしている自分たちには無縁な話だと思ったそうです。

大船渡屋台村 ゆめんちゅ

「ところが、一枠だけ空いてるらしいという話を人づてに聞いたんです。大きな被害を受けて沈んでしまってる大船渡を盛り上げていこうという企画で、話を知った時、町のために非常にすばらしいことだと思ったんです。そこで、ダメモトで飲食店組合の及川さんを訪ねてみたところ、即決定。しかも沖縄好きの弟が、勢いで『沖縄風居酒屋をやります!』と宣言してしまい、この店を始めることになりました(笑)。今は大船渡を元気にしたい。東京行きは無期延期です」

「大船渡を元気に」という思いは、他の店主も同じでした。お好み焼きと串カツがメインの居酒屋「なにわ屋」の新山明男さんは、震災の13年前に、大阪から大船渡へ移り住みました。震災前は喫茶店を兼ねた陶芸ギャラリーを開いていましたが、津波で全てを失いました。避難先の栃木県にそのまま住み続けることも考えましたが、テレビに映し出される大船渡の光景を見る度に、知人たちの安否が気になりました。

このままでは精神的に良くない、もう一度大船渡へ戻ろう。そう決心した新山さんは、すぐに大船渡市役所へ電話をし、「仮設住宅に申し込んでいなかったが、今からでも何とか入れてほしい」と頼み込みました。そして屋台村構想を知り、自分も大船渡を元気にしたいと手を挙げたそうです。「もう一度、商売を通して大船渡の復興に力を尽くしたい」。お好み焼きを焼きながら、新山さんはそう話していました。

大船渡市街地
大船渡市街地(2015年8月18日)

「おふくろの味えんがわ」の看板娘・高橋コウさんは、当時86歳。昔は、ご主人が建設業を営んでいたので、経理や接客などを手伝っていましたが、ご主人が他界されてからは一人暮らしで、畑仕事以外は特に何もしていなかったそうです。震災では、海に近かった自宅が津波で流され、避難所に入っていました。陸前高田に住む娘の伊勢恵美さんと連絡が取れたのも、少し時間が経ってからだったそうです。その後、名古屋に住む息子さんが駆け付け、東京にある息子さんの仕事用の住まいに避難。

東京では、畑づくりの指導をするなど、少しずつ生活に慣れ始めてきた中、恵美さんから、屋台村に出店することにしたとの話を聞き、友達もいる故郷に戻ろうと決心。恵美さんは、先が見えない状況の中、自分に何が出来るのだろう、と考えている矢先に、屋台村出店予定の知人から募集情報を聞いて応募。

大船渡市街地
大船渡市街地(2018年5月6日)

恵美さんも、コウさんも、飲食業の経験はありませんでしたが、「街に明かりをともしたい。大船渡に来てくれるボランティアの方々へ食事を提供したい」という思いで、屋台村に出店しました。店の名の「えんがわ」は、家の縁側をイメージして命名したそうです。みんなが集まって茶飲み話をする、縁側のような店を作りたいということだったようです。

この大船渡屋台村のオープン後、県外からの支援窓口となった磯谷さんと親しくさせて頂いたおかげで、その後、被災地の情報をいろいろと教えて頂くようになりました。更には、屋台村を始め、大船渡で何らかの支援活動が行われる際には、事前に連絡を頂き、取材に伺えるようになりました。その中には、綾里漁業協同組合への密漁監視船支援や「時習館」柔道場の再建、また赤崎中学校や大船渡スポーツ少年団、少年野球場の設備支援などがありました。

被災直後の綾里漁港

時習館 柔道場
再建された「時習館」柔道場で稽古に励む子どもたち

また、屋台村への支援活動を実施した奉仕団体が、2012年11月に福岡市でアジア地域のエリア・フォーラムを開催した際には、フォーラムの方からの依頼で磯谷さんを紹介し、開会式で屋台村とフォーラム会場を中継で結ぶお手伝いもさせて頂きました。ちなみに、当日の大船渡は冷たい風が吹いていてかなり寒かったようで、前面に出ていた磯谷さんと及川さんは、寒さと緊張で顔が微妙にこわばっていたそうです。しかし、中継が終わった後、うちのスタッフが、後ろの方でぴょんぴょん飛んでる半袖の若い子が映ってて、あれが「ゆめんちゅ」だろうと思ってた、と言うので、写真を確認したら、圭二さん、ホントに半袖・・・。



後で圭二さんに聞いたら、「まあ、気合いですわ」とか言いながら、実は、「かなり寒かった!」そうです。ぴょんぴょん飛び跳ねていたのは、寒くてだったのかもしれません。そんなこともあり、大船渡へ行く時は必ず屋台村へ寄り、屋台村閉村後は、その移転先にお邪魔しておりました。

※屋台村OBたちの話は→「大船渡屋台村」OBたちのその後

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