ルーツの一つ、新城市山吉田の歴史探訪
新城市にある四谷の千枚田 |
以前のブログ(「私のルーツ旅その二 - 新城編」)で、我が家に伝わる家譜の最初に記されているご先祖・鈴木重勝は、今の愛知県三河地方の出であることを書きました。雑誌の取材で愛知県新城市に行った際、重勝と重勝の妻、孫の重好と重好妻の墓がある満光寺を訪ねた時のことを記したものです。
満光寺は、860(貞観2)年に慈覚大師・円仁によって創建され、薬師如来をご本尊とする天台宗の寺だったようです。それから700年近い歳月が流れ、戦国時代に入ると、戦乱によって寺は荒廃。それを憂えた重勝が、寺の再建を図ったわけです。
三河と遠江の国境辺りを拠点としていた重勝は、1531(享禄4)年、現在の新城市上吉田に土着。翌1532(天文元)年に、白倉城を築きました。そして、下吉田村の五反田にあった満光寺を、1kmほど東の現在地に移して再建。名僧の誉高い玄賀和尚を、川路村(現新城市川路)の勝楽寺から招聘し開山しました。これによって、宗派は曹洞宗となり、本尊も十一面観音に改められたとされます。
満光寺には、こちらも先祖に縁の深い、井伊谷(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の龍潭寺にある国指定の名勝庭園にもひけをとらないと言われる庭園があります。作庭者は大死禅柱和尚で、作庭時期は1707(宝永4)年頃と推測され、1973(昭和48)年に愛知県の名勝庭園として文化財指定されています。白倉城築城と満光寺再興を果たしたご先祖は、1568(永禄11)年、重勝の子・重時が、満光寺の裏山に当たる子路山に、もう一つ城を築き始めます。この頃、ご先祖様が拠点としていた辺りは、今川氏と武田氏と徳川氏の勢力が入り乱れていました。家譜には、「重勝 属今川義元」「重時 奉仕神君」と書かれており、大きな勢力に翻弄されていたことがうかがえます。
同年の家康による遠江進攻の際には、その先導役として重勝と重時は父子で協力。で、重時は、菅沼忠久、近藤康用と共に「井伊谷三人衆」と呼ばれるようになり、家康を頼った井伊家のサポートをすることになります。そして家康から、三河遠江国境の備えのため、柿本城を築城し、井伊谷と柿本城下の山吉田を共同で守るよう命を受けたのです。
が、重時は、翌1569年の遠江堀江城の戦いで鉄砲に撃たれ、討死してしまいました。享年42。その墓は、龍潭寺にあります。
重時の跡を継いだ重好は、この時、まだ12歳。そこで、重時の弟・重俊が補佐を務めました。
そんな中、まだ城普請の最中であった柿本城に、暗雲が立ちこめます。織田信長の勢力拡大を危惧した甲斐の武田信玄が、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を開始したのです。
更に1572(元亀3)年、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼び掛けに応じて進軍。本隊は諏訪から伊那を経て遠江へ、山県昌景と秋山虎繁の支隊は三河へ攻め入ります。その際、柿本城も山県勢から攻められることになりますが、城は、ようやく本丸の壁を作り終え、二の丸の工事に掛かろうとしたところで、城にいる兵も500人程度だったようです。
城には15歳になった当主重好と伯父の重俊、そして三人衆から近藤秀用、井伊氏の分家井伊直成らが入っていました。しかし、多勢に無勢。これでは、武田の大軍の前にひとたまりもないと、満光寺の玄賀和尚らの仲介で無血開城し、重好と重俊らは浜松城の家康の元へ向かいました。
日本三大美堰堤の一つ長篠堰堤 |
ところが、山県勢はこれを追尾。その戦闘中、重俊は銃弾に倒れ、井伊直成と共に討死してしまいました。しかし、重好は無事に逃れることが出来、長じてからは、従兄弟である徳川四天王の一人・井伊直政を助け、関ケ原の戦いで戦功を挙げたり、井伊家の付家老として彦根城築城の総元締めを務めたりした後、1618(元和4)年、水戸藩初代徳川頼房の付家老となって、水戸へ派遣されることになります。
一方、柿本城に続いて井平城を落とした山県昌景の支隊は、その後、信玄本隊と合流。対峙する家康は、遠江一言坂にの戦いで武田軍に敗退し、遠江の要衝である二俣城も陥落、更に遠江三方ケ原で、信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍で迎え撃ちましたが、またもや敗退してしまいます。
しかし翌1573年、信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止。甲斐に撤退する途中の4月12日、信玄が亡くなります。
この頃、武田氏傘下だった亀山城(現新城市作手)の奥平氏が、信玄の死を確信して離反、家康側に寝返ったとされます。そして、激しい攻防が繰り広げられ、いったんは武田側に屈した長篠城(現新城市長篠)を、信玄の死後、家康が奪還。1575(天正3)年の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍が、信玄の跡を継いだ四男・武田勝頼軍を破りました。
最盛期には甲斐・信濃・駿河及び上野・遠江・三河・美濃・飛騨・越中の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有した武田家も、これを機に一挙に衰退し、1582(天正10)年、信長に攻め込まれて滅亡しました。ただ、その後、家康の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせ、後に家康の五男・福松丸に武田信吉と名乗らせ家督を継がせることになります。
信吉は、関ケ原の戦いで徳川方に加担せず、減転封となった佐竹氏に代わり、1602(慶長7)年に常陸国水戸25万石に入封。その際、旧穴山家を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興しました。しかし、その翌年、21歳の若さで病死。これにより武田氏は再び断絶してしまいます。
鳳来寺の鏡絵馬 |
ちなみに信吉の死後、常陸には、家康の十男で当時2歳の長福丸(徳川頼宣)が入封しますが、1609年に駿府藩へ、更に1619年には紀州藩に転封し、頼宣は紀州徳川家の祖となりました。頼宣の後は、頼宣の弟である家康の十一男、当時6歳の鶴千代丸(徳川頼房)が25万石で入封。我が家の先祖・重好は、この頼房の付家老となって、水戸へやってくることになります。
そんなわけで、我が家の直系ご先祖は、水戸へ行ってしまいましたが、満光寺のある山吉田には、今も鈴木家が脈々と続いているようです。で、山吉田を含む現在の新城市南部(旧八名郡)は、江戸時代には武蔵国岡部藩の領地となり、伊那街道を下ってきた馬による陸運と豊川を上ってきた海運が接合する水陸交通の要衝となりました。明治になってからは、1889(明治22)年に山吉田村となりましたが、1956(昭和31)年、鳳来町に編入され八名郡と共に消滅しました。
現在、山吉田という地名はないものの、ネットなどで見ると、地元の方は今も地域の呼称として「山吉田」を使っているみたいですし、山吉田こども園や鳳来山吉田郵便局など、固有名詞にも残っています。
鳳来山東照宮 |
ところで、旧町名の「鳳来」は、紅葉の名所として名高い鳳来寺山に由来しています。鳳来寺山は、愛知県の県鳥・コノハズク(仏法僧)が棲息していることでも知られ、山全体が国の名勝・天然記念物に指定されています。山頂付近には702(大宝2)年開山と伝わる古刹・鳳来寺があり、麓から1425段の石段が続く参道には、樹齢800年、現存するものとしては日本一の高さ(60m)を誇る傘杉などを見ることが出来ます。
鳳来寺山は標高695mの山で、鏡岩(屏風岩)に代表される岩肌を露出した美しい山の姿は、古くから山そのものが信仰の対象となり、修験者の聖地、真言・天台の密教の道場として栄えてきました。かつて、鳳来寺の薬師如来に祈願する際は、衆生の願い事を映しかなえるとされている鏡を奉納する習わしがあり、現在では鏡がついた「鏡絵馬」が奉納されています。
また、鳳来寺の隣には、日本三東照宮と称される鳳来山東照宮があります。子宝に恵まれなかった家康の両親が、祈願のため鳳来寺山にこもったところ、間もなく家康を懐妊したという伝説があり、日光東照宮に参詣した際に、この話を聞いた3代将軍家光が、鳳来寺の近くに東照宮を創建、4代将軍家綱の時に完成しました。鳳来寺は江戸時代、徳川家ゆかりの地として幕府の厚い保護を受け、21院坊、寺領1350石という盛大さを誇っていたそうです。
取材記事→「三河の里山・鞍掛山のふもとに広がる日本の原風景、四谷の千枚田」
※新城取材の際、桜淵公園近くの「王様の食堂」に入りました。明るい時間帯に見かけた時は、掘っ立て小屋がある的な認識だったのですが、1軒目である程度飲んでいたのと、夜目だったので、すーっと入りました。後から聞くと、崩壊寸前だった昔の貸しボート小屋を改装した食堂だったようで、道理で「雰囲気」があったわけです。でも、おいしかったので、ここで紹介しようと思ったのですが、確認のためネットで検索すると、我々が行った翌年夏に、いきなり閉店してしまったようで、残念ながら割愛しました。しかし、去年から今年にかけて、コロナの影響もあるんでしょうが、知った店が次々閉店していて、寂しい限りです。
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