北関東の歴史町・足利市
足利市は、室町時代に将軍家となった足利氏発祥の地で、フランシスコ・ザビエルが「坂東の大学(アカデミア)」と呼んだ足利学校があります。足利の市街地は、足利氏の居宅跡である鑁阿寺と、足利学校を中心に展開しています。鑁阿寺と足利学校を結ぶ道沿いには、古い土蔵などが残り、この辺りが明治大正期に繊維産業で富を築いた富裕層の邸宅街であったことをうかがわせます。
足利学校は日本最古の学校と言われますが、その創建は奈良時代とも、平安時代とも、鎌倉時代とも言われ、定かになっていません。確実なのは、室町時代の永享11(1439)年、関東管領・上杉憲実が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉の円覚寺から僧・快元を招いて足利学校の経営に当たらせてからのことになります。
上杉憲実の方針により、教育の中心は儒学に置かれましたが、快元が易学にも精通していたことから易学を学びにくる者も多く、兵学、医学なども教えました。特に兵学は、戦国大名が関心を寄せる実践的学問で、戦国時代には足利学校出身者が、その道の権威者として重んじられました。
足利学校は最盛期、「学徒三千」と言われたほどの隆盛を誇り、北は奥羽から南は琉球に至る全国各地から来学徒がありました。宣教師フランシスコ・ザビエルは、布教本部に宛てた書簡に「坂東の大学あり。日本国中最も大にして最も有名なり」と記し、足利学校の名は海外にまで伝えられました。
しかし、関東における事実上の最高学府となった足利学校も、江戸時代には易学、兵学などの必要性が少なくなった上、朱子学に取って代わられ衰退。明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図りましたが、廃藩置県の実施もあり、明治5(1872)年に廃校となりました。その後、大正10(1921)年に足利学校の敷地と孔子廟や学校門など現存する建物が国の史跡に指定されて保存が図られ、平成2(1990)年の復元完成へとつながることとなります。
ちなみに、前々回のブログ(「大人気漫画の聖地で出会った謎の看板」)で触れた天海大僧正(慈眼大師)も、足利学校で学んでいます。天海は14歳の頃、故郷の会津を出て修行に出ます。最初は宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、18歳からは比叡山延暦寺で修行。その後、大津の三井寺や奈良・興福寺で学びましたが、母危篤の知らせを受け、23歳の時に会津に戻りました。そして、自ら母の葬儀を執り行い、喪が明けたところで、足利学校に入ります。ここでは、儒学・漢学・易学・天文学・国学・医学・兵学などを学び、すぐに頭角を現したと言います。
そう言えば、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で注目の明智光秀が、天海になったのではという説がありますが、天海の父は舟木景光で、天海は幼名を舟木兵太郎、出家前の名前は舟木秀光と言います。秀光と光秀・・・あれ? と思う人もいるでしょうが、舟木氏と明智氏は、同じ土岐氏の分家で、代々、土岐氏の祖・源頼光の「頼」や「光」を名前を付けることが多く、特に不思議ではないようです。我が家の場合も、平安時代中期の3代目以降、本家はもとより分家も「重」の字が必ず入っていました。やや偏屈だった父の考えか、私には「重」はなく、また近い親戚筋でも「重」が付く人は一人だけになっていますが・・・。
そんな足利市を取材したのは、2015年のことでした。この時は、足利学校はもちろん、知的障害者更生施設「こころみ学園」の園生らが働くココ・ファーム・ワイナリーや、繊維産業の中心都市として栄えた明治大正期の面影を伝える赤れんが工場群なども取材させてもらいました。特に、快く赤れんが工場の撮影を受け入れてくださった上、工場内をくまなく案内してくれた「トチセン(栃木整染)」さんのおかげで、北関東の近代遺産への関心が高まり、翌年の桐生取材につながりました(「懐かしいノコギリ屋根工場に新たな息吹をもたらす試み - 桐生」)。
取材記事→「多彩な観光資源を持つ北関東の歴史町 - 足利」
足利さんと言えば、一番有名人はやはり尊氏さんだと思いますが最後の将軍義昭さんもそれなりに有名だと思います。でも大河ドラマではなんとなくいい人で頼りない感じで描かれていますね。
返信削除室町幕府と言えば京都のはずなのに、どうして北関東に足利学校が置かれたのかはわかりませんか?室町幕府も江戸幕府と同じ15代まで続き、その期間も230年と徳川よりちょっと短いだけという事実はあまり知られていないかも。
足利学校の創建は、定かではないのですが、少なくとも室町時代以前、平安時代か鎌倉時代には建てられていたようです。ただ、その頃はイマイチだったみたいで、室町時代中期に、関東管領の上杉憲実が書籍を寄進したり、鎌倉円覚寺から快元を招いて運営にあたらせたりしてから、盛り上がったそうです。
削除なので、もともと足利にあった学校を、室町時代に再興したという感じでしょうか。