近江商人を輩出した湖東の町 - 近江八幡、八日市、五箇荘
松前をテーマにしたブログ(北前船が行き交った最北の城下町)で、近江商人に触れましたが、松前や江差に入った近江商人の出身地は、ほとんどが近江八幡でした。近江商人の中でも八幡商人は、北は蝦夷(北海道)から南は安南(ベトナム)までという広範囲を行商して、各地に出店をつくり、近江商人の名を高めました。
この近江商人という言葉ですが、もともとは他国の人からつけられたものです。他にも富山商人、甲州商人、紀州商人、伊勢商人、大坂商人などの呼び名がありますが、これらはいずれも地名を冠してそう呼ばれたもので、それぞれの商いの仕方で、日本の商業を発展させてきました。
これらの商人のうちで、近江商人の特色としてあげられるのは、第一に行商形態をとったこと、第二に全国各地に出店したこと、第三に営業種目が多岐にわたっていたこと、そして第四に合理的な経営を心がけたことです。特に天びん棒が近江商人のトレードマークと言われるように、自ら天びん棒を担いでの行商が、彼らの商いのルーツとなります。
天びん棒には矢立や帳面、商品見本などが入った行李が結わえられていました。そして菅笠をかぶり、木綿の着物に粗末な合羽を羽織り、足元は脚絆に足袋、草鮭をはいて、何日も歩き続けました。そして商品はまとめて、馬や荷車で定宿に送っておき、そこを拠点に売り回ったのです。
更に、彼ら近江商人の大きな特徴となっているのが、いわゆる「ノコギリ商法」の敢行です。行商の時、郷里や上方の産物を、主に中山道を中心として地方に持ち下り、商品を全て売りつくすと、帰りは手ぶらでは帰らず、その地方の産物を仕入れ、国元や上方地方で売りさばきました。これによって行商先の人々も潤い、国元でも地方の特産が手に入り喜ばれました。
八幡商人のふるさと近江八幡は、琵琶湖の東岸にある豊臣秀次20万石の城下町です。1585(天正13)年、叔父の秀吉から八幡山城主に任命された18歳の秀次は、本能寺の変の折に混乱の中で焼失した安土城下の人々を、そっくり近江八幡に移して新しい町を造り上げました。
横筋4通り、縦筋12通りの碁盤目模様の町並みや八幡堀を造営。特に長さ6kmに及ぶ、琵琶湖と直結した八幡堀は、明治、大正の頃まで商工業の動脈としての役割を果たし、今も旧城下町のシンボルになっています。また、べんがら格子の商家や白壁の土蔵が建ち並び、今にもマゲ姿の商人たちが格子戸をくぐって飛び出してきそうな町並みも、いくつかの通りに残っています。
3年前のちょうど今頃、その近江八幡に泊まりました。と言っても、福井県の武生で一つ取材をして、翌日、八日市で取材をするため、近江八幡に宿を取ったという中継地的な感じでした。
近江牛の焼肉丼にコロッケとキムチが付く焼肉丼定食 |
武生での取材を終え、近江八幡に着いたのは18時過ぎでした。が、ここでアクシデント発生。改札を出ようとしたカメラマン・田中さんのチケットが、どこを探しても見つかりません。スマホのケースに入れていたそうで、スマホごと列車の中に置いてきてしまったようです。
すぐに駅員さんが確認してくれ、我々が座っていた座席に残っていたことが分かりました。そして、新快速が停まる守山駅で保管してもらえることになり、田中さんはスマホを受け取るため、東海道線で守山へ。私は田中さんの荷物も預かって、先にホテルへチェックインすることにしました。
そんなことで、その日は少し時間が押したこともあり、ホテル近くで夕食を取りましたが、翌日、八日市での取材を終えた後、再び近江八幡駅に降り立ちました。目的は、「かね安」というお肉屋さんで食べる近江牛の焼肉丼です。駅から歩いて行くと、手前に吉野家があるんですが、もちろんスルー。
御代参街道と八風街道の交差点 |
かね安は、牛1頭を仕入れてさばいている、希少なお肉屋さんで、立松和平さんも訪問したことがあり、その際、今でもそういう店があることに驚いていたそうです。で、夜ならステーキやすき焼きが良かったのですが、この日はランチだったので、焼肉丼に。それでも、自らさばいた枝肉をつるして熟成させたA5ランクの近江牛を使っており、味は折り紙付き。しかも、店構えは大衆食堂然としており、これまた私好みの店でした。
さて、取材の八日市は、ワープロの誤変換「妖怪地」から、妖怪で町おこしを企画した人を取材。2002年の第1回妖怪イベント「八日市は妖怪地」開催を手始めに、いくつかのイベントを打ち、04年には第9回世界妖怪会議を誘致。更に07年からは、八日市周辺に伝わるお化け「ガオ」をモチーフに、怖キャラ「東近江のガオさん」を誕生させ、「ガオが来るぞ!大作戦」もスタートさせました。
この町おこしは、商店街の活性化を目指す中で始まりました。05年に新設合併して誕生した東近江市は、近江商人の源流と言われる「五箇商人」(小幡など5村)と「四本商人」(小幡・保内など4村)の本拠地でした。
合併前の旧八日市市は、御代参街道と八風街道が交わる交通の要衝で、保内商人の拠点となり、近江国第一の市場町として繁栄しました。往時をしのばせる家並もあちこちに残っており、商店街では若手が中心となって「ほない会」を立ち上げ、商店街活性化のためには、まず町を活性化させなくては、とさまざまな取り組みを行ってきました。「八日市は妖怪地」も「東近江のガオさん」も、その一環として生まれたものでした。
また、東近江市にある近江商人もう一つの拠点五個荘は、小幡商人の本拠地でした。小幡商人は、若狭(福井)方面との通商権を持つ五箇商人と、伊勢(三重)方面と通商した四本商人の両方を兼ねる唯一の商人団として活躍。初期の近江商業の中心的存在でした。
五個荘には今も、近江商人の蔵屋敷群が数多く残り、特に金堂地区は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。金堂の商人たちは、主に江戸時代後半から昭和初期にかけて呉服や綿、絹製品を中心に全国で商いをしました。しかし、商人たちは決して郷里を忘れず、金堂の本宅を守り、社寺に寄進して、集落全体として非常に調和のとれた町並みを作ってきました。
これらの屋敷の多くは見学出来るようになっており、近江商人の質素・倹約を旨とした生活ぶりをうかがうことが出来ます。
関西に住んでいる私にとっては同じ近畿なのに、なかなか足を向けることが地域です。滋賀って、ほとんどが琵琶湖やん!なんて言うと滋賀の人に琵琶湖の水を止めたろか!なんて言われますが、琵琶湖は実際は滋賀県の面積の1/6しかないそうです。
返信削除私にとって滋賀県は一番近い関西ですし、福井にはいまだに米原経由で行くので、なじみもあります。湖東が一番好きですが、湖北も向源寺の十一面観音や余呉湖などお気に入りがありますし、高島の白髭神社やメタセコイア並木など、フォトジェニックは風景がある湖西もいいですね。残る湖南は甲賀忍者ですかね。
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