北前船が行き交った最北の城下町 - 松前
松前城 |
松前町は北海道最南端。道内唯一、また日本最北の城下町として知られます。
松前までは、函館空港から約100km。レンタカーでずっと下道を走るため、2時間半ほどかかります。そんな中、途中でかなりゆっくり走る軽トラに追い付きました。しかし、追い越し禁止区域が続いていたため、軽トラに合わせて走行。30分ほどその状態が続き、取材先との約束の時間に間に合うか、やきもきし始めた頃、やっとその車が曲がってくれました。ところが、ホットしたのもつかの間、少し走ったところで、同じ型の軽トラに追い付きました。デジャブ? 松前取材は、そんな波乱のスタートとなりました。
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松前までは、函館空港から約100km。レンタカーでずっと下道を走るため、2時間半ほどかかります。そんな中、途中でかなりゆっくり走る軽トラに追い付きました。しかし、追い越し禁止区域が続いていたため、軽トラに合わせて走行。30分ほどその状態が続き、取材先との約束の時間に間に合うか、やきもきし始めた頃、やっとその車が曲がってくれました。ところが、ホットしたのもつかの間、少し走ったところで、同じ型の軽トラに追い付きました。デジャブ? 松前取材は、そんな波乱のスタートとなりました。
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松前藩の初代藩主は蠣崎慶広(かきざきよしひろ)。豊臣秀吉から蝦夷地島主の朱印状と志摩守任官を得、将軍となった徳川家康からも蝦夷地の支配権を認める黒印状を得ました。そしてこれを機に、居城地の地名松前(アイヌ語の「マツオマナイ(半島)」)に姓を改め、藩を形成しました。
しかし、当時の北海道は米がとれません。そのため、大名知行権は石高による領内支配権ではなく、蝦夷地交易の独占権でした。当然、藩士にも米を与えることは出来ません。そこで、松前藩では知恵を絞り、米の代わりにニシンを主体にした海産物を与えることにして、ニシンの漁場を「場所」と称し、米の石高に換算して支給しました。
と言っても、藩士に場所の管理が出来るはずもなく、場所請負人として、近江商人が登場します。近江商人たちは漁場経営に当たる他、アイヌとの交易も行いました。こうして得た松前の海産物や、アイヌの珍しい品物を京都や大坂に運んで売りさばき、米・味噌・醤油・呉服・漁具などを松前に運びました。この動きはやがて、近江商人の雇われ船頭を務めていた北陸の船頭たちが、北前船の船主に成長して加速することとなります。
イカ釣り船 |
松前藩は領内の交易港として、松前・江差・箱館に限定し、各湊に沖の口番所(役所)を置きました。蝦夷地に往来する船は必ずこの三つの湊のいずれかを経由しなければならず、各番所では交易船から税金を徴収。これにより、当初の藩財政の不安定さも解消しました。
また、文化面でも京の文化が近江商人によってもたらされ、寺院の庭園樹や桜、椿など名木の多くはこの頃、松前に運ばれたと言われています。逆にアイヌが交易で得た珍しい品物には、黒竜江付近から伝わった中国の衣服や絹織物がありました。特に絹織物は「蝦夷錦」と呼ばれ、松前藩の独占交易品として、幕府などへの進物品に使われました。
こうして松前はアイヌとの交易や北前船の影響を色濃く反映した、独特の文化が花開くことになりました。そして19世紀半ばには人口3万人に達し、江戸や上方にも劣らないと言われるほどとなったのです。
しかし、繁栄を誇った松前も箱館戦争の際、土方歳三を隊長とする旧幕府軍の攻撃を受け落城。天守閣は、1949(昭和24)年まで現存していましたが、町役場の火災が飛び火し焼失してしまいました。1849(嘉永2)年に幕府の命を受け、我が国最後の日本式城郭として築かれてからちょうど100年目のことでした(現在の天守閣は60年再建)。
松前の桜は藩政時代に、近江商人たちや京から輿入れした女性たちが、ふるさとを偲んで植えたり、参勤交代の際に持ち帰ったものが始まりと言われます。
北海道で最も古い建物の一つ法源寺山門 |
もっとも、松前の桜がここまでになったのは、最近のこと。
1908(明治41)年春、松前町役場に勤めていた鎌倉兼助さんが、函館公園を訪れたことに始まります。折しも満開の桜の下、函館公園は花見客でにぎわっていました。それを見た鎌倉さんは、「松前公園に桜を植え、せめて年に1回、町民が団らん出来る機会を作りたい」と考えました。当時、松前は中心産業のニシン漁が急速に衰退していく中で、人心が荒廃していたのです。
鎌倉さんはその後、桜の育成に精魂を傾け、松前公園に桜を植樹していきます。50年代に入ると、地元小学校教諭の浅利政俊さんがこれに共鳴、桜の品種改良に取り組み、松前生まれの桜を数多く生み出しました。更に76年、桜の育成と後継者作りを目的に「松前花の会」が結成され、輪が広がりました。
「さくらの里」松前は、花守の里でもあるのです。
※北海道で最も早く桜前線が達する松前は、例年4月下旬に開花。種類が多いので5月半ば過ぎまで1カ月近くお花見が楽しめます。
軽トラは時速制限40kmかいな、と思わせる節があります。
返信削除ただ、飛騨軽トラ衆(遅い車)は後続車が来ると車を脇に寄せたり止まったりと、譲り合う文化?がありますので有難いです。
松前「さくらの里」いいですね花見をしながら松前漬けスルメに昆布に数の子を贅沢に盛ってなどと、お酒が進むでしょうね。
まあ、こっちが勝手に急いでいただけで、地元の方はいつものペースで走ってたんでしょうね。郷に入っては郷に従えです。
削除長野では狭い土手の道路で、対向車同士、軽トラの窓を開けてのんきに会話しているおじいさんたちがいたり、北海道では後続車が猛烈なスピードで迫ってきたので、左に寄って譲ったら、運転者は赤ちゃんを背負った若いお母さんだったり、世の中いろいろでございますな。
松前漬けもおいしいですが、おさきんさんの弥三郎漬の方が好みです。お薦めどす。
「おさきん」さん、初めて聞きました。。知りませんでしたw 「子供が喜ぶ味っこ ご飯にのせればお替わり三杯」薦められれば食べないといけませんね。ありがとうございます。
削除こういうのは、ステマにはならないんでしょうねw
削除あぁ、言われてみれば。
削除白々しく書くと、勘違いされるよと言うことですね。
後にも先にも、なんの金銭、物品授受もないので大丈夫です。届いたら知りませんけど。。w