私のルーツ旅その一 - 水戸・常陸太田編
お盆なので、ルーツ絡みの旅をしてみます。
我が家の菩提寺は、茨城県水戸市の薬王院という天台宗の寺です。平安時代に、桓武天皇の勅願によって伝教大師最澄が創建したと伝えられており、1400年近い歴史があります。本堂は重要文化財で、仁王門と本尊の薬師如来、十二神将像なども県の文化財に指定されています。
また、仁王門の右手に五輪塔がありますが。これは、水戸藩初代藩主頼房の二男で、光圀の兄にあたる松平亀千代丸の供養のために建立された石塔です。亀千代丸は4歳で早逝し、薬王院に埋葬されましたが、後に光圀が頼房の遺志を受け継ぎ、常陸太田の瑞龍山を水戸徳川家累代の墓所と定め、墓を改葬しました。その際、五輪塔は土中に埋められたらしく、1971年に境内の杉の木を切った際、その下の土中から発見され、復元されたそうです。
東日本大震災での倒壊から修復してもらった薬王院のお墓 |
この瑞龍山は現在、管理上の理由で一般には公開されていませんが、私の曽祖父が晩年に墓守をしていたことがあるらしく、個人的に気になる場所となっています。
曽祖父は、幕末の人で、1838(天保9)年に生まれ、1903(明治36)年に没しています。幕末の水戸は、保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の抗争、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱、弘道館戦争など、藩内でさまざまな問題が起きていました。
加波山神社 |
曽祖父は、1863(文久3)年に、一橋慶喜の上洛に随行して京都に入り、在京の藩士(本圀寺勢)らを率いて皇室の守衛や慶喜の補佐に当たりました。その後、いったん帰藩して執政、再上洛して京都守衛などを務めた後、1868(慶応4)年に藩政回復の勅を受けて帰藩し、水戸城に入りました。
この時、保守派の首領には、本家の鈴木石見守が就いており、片や分家の曽祖父は、朝廷の勅書を奉じ、隊長として保守派追討軍を率いることになってしまったようです。
維新後、曽祖父は1871(明治4)年に大参事(今の副知事)に任じられました。また、水戸徳川家の崇敬が厚かった加波山天中宮が、明治の神仏分離で、加波山神社に改めた際、初代宮司に任ぜられ、加波山中腹の神社で明治7年から9年まで3年間、奉仕をしたようです。その後、世俗を離れて常陸太田の瑞龍山の水戸徳川家墓所の墓守として晩年を送ったと聞いています。
というわけで、曽祖父が晩年を過ごした常陸太田を、私目線で少し紹介します。
常陸国は、鎌倉時代から江戸時代にかけて佐竹氏が支配していました。佐竹氏は、源氏の子孫である源昌義が、常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市稲木町周辺)に土着し、地名にちなんで「佐竹」を名乗ったのが初めとされます。しかし、関ケ原の戦いで佐竹氏は徳川方に加担せず、1602(慶長7)年に出羽久保田21万石に減転封となり、先祖伝来の地である常陸を去りました。
佐竹氏に代わって常陸に入ってきたのは、徳川家康の五男松平(武田)信吉でしたが、その翌年に21歳で病死。次に、家康の十男で当時2歳の長福丸(徳川頼宣)が入封しますが、1609年に駿府藩へ、更に1619年には紀州藩に転封し、頼宣は紀州徳川家の祖となりました。頼宣の後は、頼宣の弟である家康の十一男、当時6歳の鶴千代丸(徳川頼房)が25万石で入封。この頼房以降を水戸徳川家と呼びます。ちなみに、水戸黄門で知られる水戸徳川2代目の光圀は、頼房の三男で、1661(寛文元)年に父・頼房が水戸城で死去した際、葬儀は儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく設けた儒式の墓地・瑞竜山に葬りました。
徳川光圀が生母の冥福を祈るため建立した常陸太田の久昌寺 |
ちなみに、鈴木の遠い祖先は、2代将軍徳川秀忠の命により水戸家付家老として、水戸へ赴任しました。
さて、そんな常陸国の礎となった常陸太田ですが、都々逸の元祖・都々一坊扇歌の生まれ故郷になります。
以前のブログにも書いたかもしれませんが、六代目三遊亭圓生は本題の前にちょっと話す、噺のまくらの名人でした。そのまくらの一つに、都々一坊扇歌の話がありました。概略はこうです。
雪村団扇 |
「常陸太田の医者の息子として生まれ、12歳の時に酒屋の養子に迎えられたが、当人は三味線が弾けて声がいいところから、江戸へ出ることを決意。ところが、すぐに金が底をつき、三味線の流しを始めた。それをたまたま通りがかって聴いていた音曲噺の元祖・船遊亭扇橋から気に入られ、弟子となって都々一坊扇歌の名をもらった・・・」
扇歌は、愛知県の名古屋で発生した「七七七五」の定型詩に、上方で流行していたよしこの節の節をつけて歌うのを得意としていたそうです。ふるいつきたくなるようないい声と節回しで、扇歌はたちまち人気者となり、音曲も都々逸の名で全国に広まりました。そんなこともあり、常陸太田では毎年11月、都々逸の元祖・扇歌の功績を称えて、都々逸全国大会が開催されています。
常陸太田の文化面を語る上で、もう一人忘れてはならない人物がいます。雪村周継(せっそんしゅうけい)、室町時代末期の禅僧です。しかし、禅僧と言うより、画僧と言った方がいいでしょう。
雪村は現在の常陸大宮市で生まれ、常陸太田の正宗寺で剃髪しました。絵が好きで、敬愛する雪舟や中国画の画法に学び、時には大胆な省略や、奇異にも思える構成を用いて、独特の画風を確立しました。
その雪村が創始者と言われるのが、常陸太田に伝わる伝統工芸「雪村団扇」です。雪村団扇は真竹で作った骨に、常陸大宮で漉かれる西ノ内和紙を貼り、馬や、かかし、茄子、水戸八景など雪村ゆかりの花鳥山水の水墨画を施します。団扇の形は四角で、その図柄、形は今にそのまま引き継がれています。
大正時代は4、5軒の製作者がいましたが、今では98歳になる圷總子(あくつふさこ)さんただ一人。小学生の頃から父の手伝いをしていたそうで、この道90年近くになります。ご主人が存命中は、二人で年に2000本ほど作っていたそうです。
雪村団扇の骨はい草で編んでいく(茨城県郷土工芸技術伝承者の圷さん) |
雪村団扇を取材させてもらっている間、何人もの人が口にしたのが、「鰻屋が喜ぶ団扇」でした。一本一本、丹念に作り上げているだけあって、とても丈夫なのです。その上、西ノ内和紙がまた強靱で、水につけても破れにくいという代物。江戸時代には商家が大福帳として用い、火事の際には井戸へ投げ入れて焼失を防いだと言われています。
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