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中国山地に囲まれた若桜町でジビエ三昧

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若桜町は鳥取県の東南端、兵庫県と岡山県に県境を接する中国山地の中にあります。町は、東に氷ノ山(1510m)、西には東山(1388m)、南が三室山(1358m)、北は扇ノ山(1310m)と、1300m以上の山々に囲まれており、町域の95%が山林で占められています。 若桜はまた、鳥取から姫路に抜ける播磨往来の宿場町として栄え、山陰と山陽の文化や物資が交錯していました。そんな若桜の町並みを取材した際、地元の方の計らいで、その方が所有する山小屋に泊めて頂きました。 食事も、何人かの町の方たちと一緒に、山小屋で鍋をすることになりました。鍋と言っても、そんじょそこらの鍋ではありません。熊鍋です。 他にも、イノシシやシカの肉も登場し、ジビエ三昧の夕食となりました。若桜は、周りがほとんど山だけに、猟師さんもたくさんいるらしく、地元の方は、普段からこれら山肉を食べているそうです。 私、東京生まれの東京育ちで、父方、母方の祖父母とも東京にいたため、子どもの頃から田舎に行く楽しみを味わうことなく過ごしてきました。なので、豚、鶏、牛以外の肉は、大人になるまで食べたことがありませんでした。特に、熊肉はほぼ食べる機会がなく、若桜で頂いた熊鍋が、これまでで唯一の熊食いとなっています。 そんな若桜のふるさと納税返礼品を覗いてみたら、ありました、ありました。鹿肉の生ハムにジビエカレー、ジビエの缶詰あれこれセット(鹿肉の大和煮、猪肉のすき焼き、猪肉の和風オイル漬け)の三つが選択出来るようになっていました。 で、説明を見てみると、「全国的にもトップクラスの品質を誇る若桜29工房の厳選鹿肉」「衛生的に処理された若桜29工房の猪肉」といった記載がありました。若桜29工房? 以前、若桜を訪問した時にはなかったような・・・。 というわけで調べてみると、「わかさ29(にく)工房」は、2012(平成24)年に若桜町によって設立され、翌年から本格稼働を始めた獣肉解体処理施設とのことです。更に16年には、指定管理者として「猪鹿庵(じびえあん)」を選定し、代表1名、食品衛生責任者1名、従業員2名、地域おこし協力隊1名によって運営をしているそうです。 山々に囲まれた若桜では、シカやイノシシによる農林業被害が多く、害獣駆除は年間約1000頭に及んでいました。そこで、これらの山肉を活用し、里山の恵みとして特産品に出来ないかとの

静寂につつまれる冬の銀山湖を訪ねて

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朝来市というと、旧和田山町にある雲海に浮かぶ山城・竹田城で有名ですが、以前、姫路市在住の写真愛好家に勧められたのは、旧生野町にある銀山湖でした。しかも、季節は冬限定で、勧められるまま、2月の寒い時期に生野を訪問しました。 生野は兵庫県のほぼ中央、古代から出雲・大和両文化圏の接点として開け、生野銀山と共に発展してきた鉱山の町です。生野銀山は、807(大同2)年の開坑と言われ、室町時代の1542(天文11)年、山名祐豊が銀鉱脈を発見、本格的な採掘が始まりました。その後、織田・豊臣時代を経て、江戸時代には幕府の直轄地として「生野代官」が置かれ、新潟の佐渡金山、島根の大森銀山と共に幕府の宝庫的存在となっていきました。 生野までは、姫路からJR播但線特急はまかぜ1号で約45分。車の場合は、やはり姫路から播但連絡道路を利用、生野南ICまでは約50分です。 私は車を利用しましたが、生野に着いたら、まず駅にほど近い「生野書院」に寄ってみたいところです。中は史料館になっていて、生野銀山関係はもとより、昔の生野の暮らしぶりや生活に関わる史料が展示されています。建物は、大正時代に建てられた林木商の邸宅を改修したもので、生野の町にはまだ、明治、大正の頃のこうした古い建物が多く残っており、銀山の町として繁栄した往時の面影を伝えています。 町並みを散策した後は、国道429号を東へ向かいます。目的の銀山湖の途中に、生野銀山があります。1973(昭和48)年に資源枯渇のため閉山した銀山の跡が、翌年から史跡・生野銀山として保存されています。約1kmの観光坑道や銀山資料館、銀を製錬した吹屋資料館などがあり、50分ほどの見学コースになっています。 さらに東へ10分ほど走ると、県立生野ダムとして建設された銀山湖に出ます。周囲12km、貯水量1800万平方リットルの人工湖で、生野を流れる市川の清水を満々とたたえています。フナやコイ、ブラックバスが多く、釣りのメッカとして県内外の釣り人が足しげく通います。 しかし、冬の銀山湖は静寂につつまれます。この辺りは雪も多く、鏡のような湖面に雪をかぶった周囲の山々を映します。また、温暖化の影響もあり、最近は全面結氷することはないようですが、トップ写真のように湖面が凍ると、湖底に沈んだ木が湖面に突き出したり、波紋を広げたような円が所々に現れ、不思議な風景を見せてくれます。

観光客0の町を、年間100万人が訪れる町に変えた観光カリスマ

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  出石については、このブログでも一度、記事を書いていますが、最初に行ったのが1987(昭和62)年で、以来3、4回は行っています。そんな出石の話題が、テレビ朝日の人気番組「激レアさんを連れてきた」で取り上げられました。というか、画面は見ていなかったのですが、「辰鼓楼」と「甚兵衛」という言葉が、耳に入ってきたのです。 最初に行った時、取材先の方に連れられて入った、出石名物・皿そばの店が、甚兵衛でした。その4年後に、町並みを中心に取材した時には、辰鼓楼はもちろん、甚兵衛で皿そばの取材、撮影もさせてもらいました。 そんなわけでテレビを見ると、出ていたのは、甚兵衛の渋谷朋矢さんという方でした。私がお会いしたのは、創業者の渋谷勝彦さんで、朋矢さんはその息子さんだろうと想像しました(後で聞いたら、婿養子さんだったようです)。 で、激レアさんとして連れてこられたのは、「町の自慢である日本最古の時計台の歴史を調べたら最古ではなく2番目だと判明し、町の誰にも言えず1人で震えていた人」としてでした。そう言えば、番組の3カ月ほど前のニュースで「最古論争に決着」として、札幌の時計台と共に日本最古の時計台と呼ばれてきた辰鼓楼は、実は日本で2番目だったと報じられていたことを思い出しました。で、事もあろうに、それを暴いちゃったのが、地元・甚兵衛のご主人だったんですね。 私も以前、雑誌に出石の記事を書いた時、次のように紹介していました。「但馬の小京都と呼ばれる豊岡市出石は、日本最古の時計塔『辰鼓楼』や、江戸中期に建てられた酒蔵など、郷愁を誘う美しい町並みで、多くの観光客を引き付けている」。むむむ・・・違っちゃったじゃないの。 しかし、実は出石の観光協会では、案内板や観光パンフレットに「日本最古」と紹介されていても、ウラが取れていないため、いつも「日本最古かもしれない」と明言を避けていたそうです。そのため、最古じゃないと分かって、逆にほっとしたらしく、「これからは堂々と、日本で2番目に古い時計台」と名乗れると喜んだとか。また、周囲の反応も好意的で、観光客が減るような心配もないようです。 そんな出石ですが、50年前には、観光を目的に出石を訪れる人など皆無に等しいものでした。京阪神から天橋立や城崎温泉など、有名観光地へ向かう途中にありながら、出石は完全スルーだったのです。 潮目が変わったのは1968(

東海自然歩道で高尾山と結ばれる箕面の自然

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箕面市は梅田から電車で25分、大阪のベッドタウンとして人口が急増しています。しかし、箕面の駅から少し歩き、箕面公園に入ると、そこには自然があふれています。 箕面公園は明治100年を記念して、1969(昭和44)年、東京・八王子の高尾と共に「明治の森国定公園」に指定され、両公園を結ぶ東海自然歩道の西の起点ともなっています。東海自然歩道は、高尾と箕面を結ぶ1都2府8県(東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、岐阜県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府、奈良県、大阪府)に及ぶ全長1734kmの自然歩道で、長距離自然歩道の第1号として、70年に誕生しました。ちなみに、長距離自然歩道は、これまでに8本(東北、首都圏、中部北陸、東海、近畿、中国、四国、九州)が整備され、現在整備中の北海道、東北太平洋岸の2本が完成すると、総延長は2万7000kmになります。 で、東海自然歩道は、高尾山や相模湖、比叡山、鞍馬など、自然豊かな観光地が入っており、箕面の散策モデルコースは、大阪府茨木市の忍頂寺から箕面まで約6時間の自然歩道となっています(逆コース5時間40分)。もともと箕面は、箕面滝や箕面山地の渓谷を中心に、新緑、紅葉を始め四季折々の自然の美しさで、古くから知られた景勝地でした。 そのため、箕面単独でも、十分楽しめるスポットになっています。箕面滝までの行程をざっと紹介しておきます。 阪急阪急箕面線の箕面駅で降り、みやげ物店が並ぶなだらかな坂をたどります。みやげ物店の軒先では「もみじの天ぷら」が揚げられ、甘い香りが漂ってきます。「もみじの天ぷら」は、箕面の伝統名菓で、1300年前、箕面山で修行をしていた行者が、滝に映えた紅葉の美しさを称賛して、灯明の油でモミジの天ぷらを作り、旅人にふるまったと伝えられています。今では箕面名物として、みやげ物店の軒先で揚げられています。 そんなみやげ物店が途切れ、しばらく歩くと箕面公園に入ります。箕面川の流れに沿って遊歩道を歩くと、1万点の昆虫のコレクションが展示されている昆虫館があります。箕面公園は、日本有数の昆虫の多産地として知られ、これまでに約4000種が記録されています。 また、この辺りは古くからモミジの名所として有名でしたが、モミジ以外にも、さまざまな樹木や草花など1000種近くの植物が成育しており、箕面の自然の豊かさを物語っています。 昆虫館の対岸には、

日本仏像界の人気スター阿修羅が待つ興福寺

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数えでちょうど50になる年の1月下旬、久々に奈良駅に降り立ちました。その日はとても寒く、駅を出ると、空から白いものがちらちらと落ちてきました。 昼を回っていたので、まずは腹ごしらえと、奈良の街に足を踏み出しました。しかし、町並みに全く記憶がありません。思えば、高校の修学旅行以来の奈良だったのです。 そう言えば、中学の修学旅行も京都、奈良でした。が、思い出に残っているものと言えば、京都の清水寺と、旅館でのバカ騒ぎぐらいのものでした。 高校の時は、興福寺の阿修羅像にひかれたことを覚えています。 阿修羅は本来、古代インドの戦闘神で、神々の王である帝釈天に戦いを挑む鬼神でしたが、後に釈迦に帰依して守護神となりました。三つの顔に六本の腕を持つ、そんな荒ぶる神が、興福寺でいちばん人気の仏像なのです。興福寺・国宝館の床は、阿修羅像の前が、最も傷みが激しいといいます。 人気の秘密は、清楚な少女を思わせる、そのはかなげな表情にあります(もちろん、阿修羅は男です。だから、少女ではなく美少年と言った方が正しいのでしょうが、とりあえずこの記事では、あえて少女路線で突っ走ります)。 で、実はこの阿修羅像、復元模造プロジェクトのリーダーを務めた小野寺久幸さん(美術院 国宝修理所長)が、「阿修羅像のモデルはおそらく少女」と言っているのです。この説を唱える専門家は結構多いようで、個人的には肩入れしたくなる説です。 私の目的は、その阿修羅がいる興福寺の五重塔でした。ただ、冒頭にも書いたように、この日は時折、雪もちらつく空模様。おかげで国宝館に退避し、阿修羅に再会出来ましたが、それで満足して帰るわけにはいきません。一応、仕事で来ているので・・・。 そんな祈りが通じたのか、夕方になると風が強まり、雲が流れていきます。やがて日が差し始め、青空も見えてきました。しかし、晴れたとはいえ風が強く、人気のない境内で、寒さに震えながら自分の境遇を呪ったものです。結局、夜に出直し、ライトアップされた五重塔を撮影しましたが、この時の方が風がなく、寒さも感じませんでした。人生、そんなものですね。 ところで、五重塔は、もうすぐ約120年ぶりとなる大規模修理に入ります。それを前に、この3月1日から31日まで、ふだんは拝観出来ない塔の1階部分の特別公開が行われる予定でしたが、新型コロナウイルスの感染急拡大に伴い延期となりました

日本六古窯の一つ常滑焼の歴史

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私が編集に携わっていた雑誌は、今年で創刊64年になりますが、一貫して読者からの投稿欄が設けられています。編集部にはバックナンバーが全て保管されており、創刊2年目に入った1959年の雑誌(第2巻第1号)を見ていた時、「常滑焼の歴史」という原稿が目に止まりました。投稿者の柴山三郎さんは、1898(明治31)年に常滑市で生まれ、1923(大正12)年に秘色焼を興し、主に花器や水盤を作陶していた方でした。その投稿は、次のように始まっていました。 「全国有数の『すえ物作りの街・常滑』の名は、あまりにも世間に知られておりません。皆さんの身近に使用されていながら、その陶器が何焼であるかを知らずに使われている不思議な存在が、常滑焼であります」 私も、常滑焼と聞いて、イメージするのは土管坂ぐらいで、柴山さんの原稿を読んで初めて、朱色の急須や植木鉢も常滑焼だと知りました。常滑焼が、越前・瀬戸・信楽・丹波・備前と共に、日本の六古窯の一つとされていることは知っていましたが、確かに身近で使っていながら、それが常滑焼とは意識していませんでした。ちなみに、INAX(伊奈製陶/現LIXIL)も常滑だそうで、柴山さんは、常滑焼の知名度の低さは伊奈製陶以外、 ほとんど宣伝をしていないという、昔からの宣伝嫌いの風習からで、「デパートの宣伝係でさえ知らない人が多い実情であります」と書かれていました。 せっかくなので、柴山さんの原稿を以下に抜粋してみます。 「常滑市は名古屋市の南方、伊勢湾の海中に細長く延びた知多半烏の西海岸にある人口5万(※1)の街であります。名古屋駅から名鉄電車で急行1時問(※2)で達する陶器の街で、煙突林立する大工業地帯の景観を見ることが出来ます。有田焼も京焼も生まれていなかった鎌倉時代に、幕府からの注文で大きな壺や、 ひらかと称する皿、茶碗を盛んに焼いていたのであります。3000年以前の弥生式の土器も付近から発掘されていますので、 常滑焼の起源をどこまでさかのぼってよいのか分かりません。昔は船を利用した海上輪送が唯一つの運送機関でありましたので、 海岸地帯であって粘土と燃料の豊富にあった常滑地方一帯が、自然と陶器の生産地として発展したものと考えます。常滑古窯調査会の手で、半島の丘陵地帯の尾根10里ほどの間に散在する古い窯跡1000余カ所の存在を確認することを得ましたが、まだ山中に埋も

蒲郡市と西尾市から三河湾を望む

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前に何度か記事の中で触れていますが、担当していた雑誌の写真コンテストの常連さんに、撮影スポットを案内してもらう企画をやったことがあります。その際、愛知県の方に案内されたのが、三河湾でした。案内人は尾張(名古屋)と三河(岡崎)のほぼ中央にある東浦に住んでいました。日の出や夕陽の瞬間にあらわれる、色彩の変化と雲の表情に魅せられ、三河湾一帯を撮影地としていましたが、その時は蒲郡市と、幡豆町・吉良町(いずれも現在は西尾市)を中心に、内陸側を案内してくれました。 名古屋からは、名鉄三河線または名鉄西尾線の吉良吉田駅で下車。東京方面からは、新幹線の豊橋で東海道線に乗り換え、蒲郡へ。車では、東名高速の音羽蒲郡インターから音羽蒲郡有料道路を使い、やはり蒲郡へ出ます。東海道線の豊橋 - 蒲郡が10分、車ではインターから蒲郡までが約20分なので、この記事ではまず、蒲郡から紹介します。 蒲郡は県下有数の観光都市で、市内には三谷温泉、形原温泉、蒲郡温泉、西浦温泉と、四つの温泉場があります。観光都市・蒲郡のシンボルともいえる小島・竹島は、蒲郡温泉の近くにあり、陸とは387mの橋で結ばれています。島全体が暖地性植物でおおわれ、国の天然記念物に指定されています。周辺にも、三重県・鳥羽や伊良湖、三河大島への乗船センター、竹島水族館などがあり、多くの観光客が訪れます。 蒲郡から幡豆までは、名鉄でほぼ15分、車では形原温泉から三ケ根山スカイラインを通って約35分。三ケ根山スカイラインは別名「あじさいライン」と呼ばれ、約15kmの道筋に植えられた7万株のアジサイが、6月初旬から7月中旬にかけて咲き乱れ、ドライバーの目を楽しませてくれます。山頂には、殉国7士の墓やフィリピン戦没者の霊を慰める比島観音などがあり、遠くに渥美半島、知多半島、眼下に三河湾が望めます。 幡豆にはまた「うさぎ島(前島)」と「猿が島(沖島)」という名の無人島がありました。うさぎ島には400羽のウサギが、猿が島には100匹のサルが放し飼いにされ、観光客が間近に動物と接することが出来る「海上動物園」として親しまれていました。遊覧船で20分ほどで渡れたのですが、観光客が減ったことで、遊覧船の運航が停止、島の名も正式名称に戻りました。ちなみに「うさぎ島」のウサギは近隣の小学校や動物園などへ譲渡され、「猿が島」のサルは犬山市のモンキーパークに引

北陸の銀閣寺とも称される松桜閣

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黒部で「くろワン・プロジェクト」について話を伺った菅野寛二さんは、取材が終わった後、庭が黒部市指定名勝になっている「松桜閣」に案内してくれました。松桜閣は、富山地方鉄道の新黒部駅と舌山駅のほぼ中間にあり、北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅からも歩いて5分ぐらいの所にあります。 もともとは、富山県の初代県令(県知事)国重正文の住居として、1883(明治16)年、富山市に建てられました。5年後、国重氏が内務省社寺局長として転任した後、空き家になっていたところを、1891年に黒部の豪農・西田豊二が買い取り、現在の場所に移築しました。 その後、永平寺64世貫首・森田悟由禅師(号・大休)に帰依し、得度した佐々木太七郎が、明治末に、西田家から屋敷ごと購入し、大休庵を結びました。そして、太七郎の子である尼僧・即妙師が、1931(昭和6)年に曹洞宗の寺院として開山。旧国重邸の隣に本堂を建立し、46(昭和21)年に寺号を大休山天真寺に改め、現在に至っています。 市の名勝に指定されている庭は、1898(明治31)年、豊二の弟・収三により、1530坪の回遊式大庭園として作庭されたものが、基礎になっています。それが、大休山開山の翌年、地元の庭師・城川久治が、近江八景を模して改修し、今の姿になったということです。 しかし、近年は、旧国重邸の老朽化が進み、文化財的価値は失われつつあったようです。そんな状況を憂えた地元の方たちが、NPO法人「松桜閣保勝会」を作り、松桜閣の復活に立ち上がりました。そして、大工と庭師の育成を目的とする富山市の専門学校・職藝学院の上野幸夫教授に相談し、同学院の学生たちによって復元工事が行われました。 ちょうど、北陸新幹線開業の時期でもあったため、天真寺の了承も得て、黒部宇奈月温泉駅からも近い観光スポットとして、庭園と邸宅を開放。天真寺境内にありながら、松桜閣と庭の管理・運営は、松桜閣保勝会が担当しています。 松桜閣の数寄屋造りは全国的にも珍しい、建築学的に貴重なものだそうです。新幹線駅からも歩けますし、その後、舌山駅から地鉄に乗れば、宇奈月温泉までは24分。温泉前に、立ち寄ってみてはいかがでしょう。

北陸新幹線開業をきっかけに始まった「くろワン・プロジェクト」

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北陸新幹線は、東京から埼玉、群馬、長野、新潟を経て、富山、石川をつなぎます。北陸新幹線の構想は、東海道新幹線開業の翌年、1965年に金沢市で開催された地方公聴会で発表されたそうです。構想自体は、かなり以前からあったのですが、実際に開業したのは、それから50年後の2015年になってからでした。 昨日の記事( 糸魚川駅北大火からの復興 )で書いた糸魚川も、その停車駅の一つですが、東京から金沢方面へ向かう下りの新幹線では、次が今日の記事、黒部市(黒部宇奈月温泉駅)となります。黒部宇奈月温泉駅は当初、82年に北陸新幹線富山県東部駅を黒部市の舌山付近に建設する計画が発表され、93年になって現在地に「新黒部駅(仮称)」を設置することが決定。そして13年にJR西日本から、駅名を「黒部宇奈月温泉駅」とすることが正式に発表されました。 その一方、黒部市では、駅の建物を始め新駅周辺の整備構想について、市民からの提言を得るなどの施策を展開しました。駅名候補の選定や駅周辺の整備に関して、提言の取りまとめを依頼されたのは、97年に誕生した「黒部まちづくり協議会」でした。その協議会で、新幹線市民ワークショップの2代目リーダーを務めた菅野寛二さんに、お話を伺ったことがあります。 ワークショップでは、駅舎を全て木で作ろうとかガラス張りにしようとか、それこそさまざまな意見が出たそうです。その中で、無料の駐車場を設けること(500台)や、ロータリーには一般車は入れずバスやタクシーのみ乗り入れが出来るようにするなどの提言は、そのまま生かされました。ただ、議論の中で、最も大きな課題とされたのが、二次交通の整備でした。 新幹線駅が開業しても、その先のアクセスが無ければ、乗降客の利便性が悪く、当然ながら利用客も少なくなるだろうとの考えでした。そこで目を付けたのが、新駅が開業する付近を通る富山地方鉄道(地鉄)でした。これを受け、地鉄では新幹線の新駅から500mほどの所にある舌山駅を廃止し、新幹線駅の前に新駅を作る構想を打ち出しました。しかし、通学など普段から駅を使う地元の人たちから、舌山駅存続の要望があり、舌山駅も存続しながら新駅を設けることになりました。 こうして、最初は新幹線絡みの話として始まったワークショップでしたが、活動の中で地元の生活に密着した鉄道としての役割を再認識し、そこにスポットを当てる動きが副

ヒスイ王国・糸魚川と奴奈川姫の伝説

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糸魚川駅北大火を紙芝居で語り継ぐ活動を取材した際、市内をあちこち歩いていて、ヒスイと奴奈川姫(ぬなかわひめ)にまつわるあれこれを見つけました。 まず、糸魚川駅南口に出ると、すぐ右側に「ヒスイ王国館」という建物があります。コミュニティーホールらしいですが、1階には糸魚川観光物産センターがあって、それこそヒスイや地酒などが置いてありました。糸魚川は、硬玉ヒスイの原産地なのです。 糸魚川駅の隣に、えちご押上ひすい海岸駅(えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン)がありますが、この駅から海に向かって5分ほど歩くと、その名もヒスイ海岸があります。玉石の海岸で、石の多くは、川によって、長い年月をかけ山から海に流されてきたものです。運が良ければ、ヒスイが見つかることもあるそうです。 さて、ヒスイ王国館前の横断歩道を渡ると、奴奈川姫のブロンズ像があります。更に、海へ向かって真っ直ぐ延びる駅前通りは、その名も「ヒスイロード」と呼ばれ、両側の歩道には、デッカイ勾玉と少し小ぶりな勾玉、それに宝珠が、あっ、ここにも、あれ、あそこにも、という感じで設置されています。 そして駅から歩いて5分ほど、日本海を望む駅前海望公園には、ひときわ大きな奴奈川姫のブロンズ像が建っています。姫にしがみついているのは、息子の建御名方神(たけみなかたのかみ)で、『古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ)の子とされます。つまり、大国主神と奴奈川姫の間に出来た子どもってことになります。 ただ、『古事記』では、出雲国の大国主神が、高志国の沼河比売(奴奈川姫)に求婚したことまでしか出ていません。でも、平安前期の歴史書『先代旧事本紀』には、大己貴神(大国主神)と高志沼河姫(奴奈川姫)の子どもと記されており、記紀には記述がないものの、これと同じ伝承が、糸魚川を始め各地に残っています。 出雲と糸魚川では、かなり距離がありますが、日本海に面しているので、舟で交流があったのでしょうね。しかも、糸魚川には、古くからヒスイを使った玉作りを行う一族がいたと言われます。玉は古代人の装飾品で、勾玉・管玉など、多種多様な玉があります。ヒスイやメノウなどを材料として作られましたが、それが信仰の対象となるほど、神秘的な美しさを秘めていました。 大国主神がはるばる出雲から高志国までやって来たのも、ヒスイを求めてということだったのでしょう。で、玉造部