日本六古窯の一つ常滑焼の歴史

土管坂
私が編集に携わっていた雑誌は、今年で創刊64年になりますが、一貫して読者からの投稿欄が設けられています。編集部にはバックナンバーが全て保管されており、創刊2年目に入った1959年の雑誌(第2巻第1号)を見ていた時、「常滑焼の歴史」という原稿が目に止まりました。投稿者の柴山三郎さんは、1898(明治31)年に常滑市で生まれ、1923(大正12)年に秘色焼を興し、主に花器や水盤を作陶していた方でした。その投稿は、次のように始まっていました。

「全国有数の『すえ物作りの街・常滑』の名は、あまりにも世間に知られておりません。皆さんの身近に使用されていながら、その陶器が何焼であるかを知らずに使われている不思議な存在が、常滑焼であります」

私も、常滑焼と聞いて、イメージするのは土管坂ぐらいで、柴山さんの原稿を読んで初めて、朱色の急須や植木鉢も常滑焼だと知りました。常滑焼が、越前・瀬戸・信楽・丹波・備前と共に、日本の六古窯の一つとされていることは知っていましたが、確かに身近で使っていながら、それが常滑焼とは意識していませんでした。ちなみに、INAX(伊奈製陶/現LIXIL)も常滑だそうで、柴山さんは、常滑焼の知名度の低さは伊奈製陶以外、 ほとんど宣伝をしていないという、昔からの宣伝嫌いの風習からで、「デパートの宣伝係でさえ知らない人が多い実情であります」と書かれていました。


せっかくなので、柴山さんの原稿を以下に抜粋してみます。

「常滑市は名古屋市の南方、伊勢湾の海中に細長く延びた知多半烏の西海岸にある人口5万(※1)の街であります。名古屋駅から名鉄電車で急行1時問(※2)で達する陶器の街で、煙突林立する大工業地帯の景観を見ることが出来ます。有田焼も京焼も生まれていなかった鎌倉時代に、幕府からの注文で大きな壺や、 ひらかと称する皿、茶碗を盛んに焼いていたのであります。3000年以前の弥生式の土器も付近から発掘されていますので、 常滑焼の起源をどこまでさかのぼってよいのか分かりません。昔は船を利用した海上輪送が唯一つの運送機関でありましたので、 海岸地帯であって粘土と燃料の豊富にあった常滑地方一帯が、自然と陶器の生産地として発展したものと考えます。常滑古窯調査会の手で、半島の丘陵地帯の尾根10里ほどの間に散在する古い窯跡1000余カ所の存在を確認することを得ましたが、まだ山中に埋もれている未調査のものを合わせると推定2000余基の古窯跡があったものと思われます。


かくのごとく多数の古窯跡群があることは日本一であると共に、庶民階級の日用雑器も大量生産されたことを想像することが出来ます。貴重な古陶器の資料をたくさん発掘して、街の陶器館に保存しております。国宝『秋草文壺』に準ずるような珍品も続々出ています。小山冨士夫先生の紹介によって、世人の注目するところとなり、知名の士で古常滑の壺を漁りに来る人が多くなりました。古い陶器の歴史を考慮いたしますと、常滑焼は大形物の陶器を作ることに妙を得ていたものと考えられます。近代産業としても大物の生産は常滑陶業の独特の強みとされ、全国の陶器の産地中異色ある陶器の都であることをご紹介する次第であります」

※1:2021年10月現在、58,572人
※2:現在は快速急行で30分、急行で45分

コメント

このブログの人気の投稿

悲しい歴史を秘めた南の島の麻織物 - 宮古上布

愛媛県南部の初盆行事 - 卯之町で出会った盆提灯

銘菓郷愁 - 米どころ偲ばせて「養生糖」 新潟県新発田

『旅先案内』都道府県別記事一覧

岩手の辺地校を舞台にした「すずらん給食」物語

上州名物空っ風と冬の風物詩・干し大根 - 笠懸町

越後に伝わるだるまの原型「三角だるま」

地域の復興に尽くすボランティアの母 - 八幡幸子さんの話

飛騨高山で味わう絶品B級グルメとスーパージビエ

日本最北端・風の街 - 稚内