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夏冬2度訪ねた「太陽を味方につけた町」北竜

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最初に北竜町を訪ねたのは、夏、ヒマワリ真っ盛りの時期でした。道内の子どもたち約80人が、オホーツク側のサロマ湖から日本海側へ向けて、道内を横断しながらリーダーシップ・キャンプをするというプログラムに同行した時でした。北竜には、その途次に立ち寄り、子どもたちは、「ひまわり迷路」で楽しい時間を過ごしていました。 次に北竜を訪問したのは、厳寒の1月中旬でした。前日に日本海で発生した低気圧が、急速に発達しながら北海道に接近。更にこの低気圧が数年に一度レベルの寒気を呼び込み、北日本は大荒れの天気が予想される時期でした。実際、北竜町では訪問した日の午前中、5時間で25cmの積雪があったそうです。 取材の打ち合わせで連絡を取っていた中島則明さんから、前日に電話があり、北海道は翌日午後から爆弾低気圧の影響で冬の嵐になる可能性があり、最悪の場合、取材予定の活動が延期になることもあり得る、との話でした。心配しながら新千歳空港へ降り立ちましたが、雪は全く降っておらず、所々、青空も見えていました。ただ、空港から北竜町までは距離にして約120km。まだ安心出来ません。 新千歳空港からはエアポートライナーで札幌まで行き、ここで函館本線の特急に乗り換えて滝川へ。乗車時間は合わせて約90分。滝川から北竜まではバスです。札幌‐留萌間を走る高速バスに乗ると、滝川駅前から北竜役場前までは約25分。途中、所々雪が舞う箇所もありましたが、北竜町は「太陽を味方につけた町」のキャッチコピー通り、青空の下、太陽が顔をのぞかせていました。 役場前で、北竜町議会副議長の山本剛嗣さんと、中島さんと合流後、すぐに現場へ向かいます。この日の活動は、高齢者宅の除雪作業でした。この日は14人のボランティアが、それぞれスコップ持参で参加。3班に分かれ、3軒のお宅で雪はね(雪かき)奉仕を行いました。 北竜町の冬は雪が多く、年に何度かは雪はねが必須。道路に面した玄関前などはショベルカーを使うことも出来ますが、家の裏側は人の手でやるしかありません。しかし、高齢者宅では手が足りず、こうして時々、雪はねボランティアを実施、とても喜ばれています。 元気な人が高齢者をサポート。皆で力を合わせて厳しい冬を乗り切るのが、北竜町流だと皆さん口をそろえています。この時は、そんな町民性、地域性が、取材目的の一つでした。 この後、活動の打ち上げを兼ね、焼

250年近い歴史を持つ伊予の窯業地・砥部

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砥部町は、愛媛県のほぼ中央、東と西、南の三方を山に囲まれた盆地状の町です。北部は松山平野に向かって開け、重信川を境に松山市に接します。町の中央を砥部川が北流し重信川に合流、瀬戸内海へと下ります。「ミカン王国・愛媛」の中でも一、二の生産量を誇る代表的産地です。と同時に、やきもの産地としても知られています。 砥部では、主に飲食器、花器類の磁器が生産されています。その特色は、白い磁膚に藍の呉須絵にあります。砥部焼の正確な起源は不明ですが、少なくとも江戸中期以来、陶器が焼かれていました。今日のような磁器の製造が始められたのは、1777(安永6)年のことです。 時の大洲藩主、加藤泰候(9代)が、藩財政振興策の一環として始めたものです。伊予郡原町村(現・砥部町)の杉野丈助が、監督としてこれに応じ、有田や波佐見などと共に、磁器の産地として知られていた肥前大村藩・長与の陶工5人を招き、砥部村五本松(現・砥部町五本松)に築窯しました。 砥部は、「伊予砥」の名で中央にも聞こえた砥石の産地でした。泰候は、肥後の天草砥石を原料にして、肥前各地で磁器が生産されていることを知り、伊予砥でも磁器が作れないかと考えたのです。そして、5人の指導を受け、3年近い歳月を経て出来上がったのが、1777年でした。 最初に窯が築かれた五本松は、今も砥部焼の中心地で、周辺を合わせて30数戸の窯元が軒を連ねます。南に高くそびえる障子山(885m)を背景に、庭で天日乾燥する情景は、「陶芸の町」砥部らしい情趣が漂います。 藩政期においては、主に染付を量産しました。俗に「くらわんか茶碗」というものがありますが、これは摂津国枚方(大阪府枚方)付近で、淀川通いの船に酒食を売る船で用いた粗磁の茶碗を言います。初期のものは、砥部焼が多く使用されたということです。 砥部の窯業が、地場産業として確立したのは、明治に入ってからのことです。1875(明治8)年、良質の原料陶石「万年石」が発見され、急速に発展しました。主に、東南アジアへの輸出が始まリ、大正の頃には輸出が総生産の7割を占めた時期もあります。茶碗は特に「伊予ボール」として人気がありました。その後、時代の波を受けつつも、昭和40年代の民芸ブームによリ窯数も増え、1976(昭和51)年には国の伝統的工芸品に指定され、今日に至っています。 若い頃、撮影に協力して頂いた故酒井芳美さ

富士山麓、素朴な山里の雰囲気を残す手織り紬の里 山梨県富士河口湖町

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山梨県南部、富士山の北麓に半円を描くような形で、山中、河口、西、精進、本栖のいわゆる富士五湖が連なります。富士山を望む湖として、日本で最も有名な湖沼群です。河口湖はその中心で、県内観光のメッカとなっています。 その河口湖北岸に大石という集落があります。湖畔の大石公園からは、湖越しに雄大な富士山が望め、ゆったりとした気分にひたれます。夏には公園にラベンダーが咲き誇り、富士と湖、花の取り合わせがとても美しい場所です。 その大石公園から、山側に向かって少し入った辺りに、大石紬伝統工芸館があります。私が取材した頃は、周辺にまだ茅葺きの家が残り、素朴な山里の雰囲気を残していました。今はさすがに、ほとんどの家が、トタンなどで屋根を覆わってしまったようですが、古くからの手織り紬の里にふさわしいたたずまいが感じられました。 そして、そんなたたずまい通り、大石では今も、蚕を育て、繭を採り、糸を紡いで染めています。昔ながらの農家の機織りの姿を、最もよく伝えているのが、この大石紬だと言われます。 大石紬には玉繭が使われます。玉繭というのは、一つの繭に二つのさなぎが入っているもので、昔は屑繭と呼ばれました。太く、節の多い糸が出来ます。節があるからねばって切れやすく、手間がかかって織るのに苦労するのだといいます。大石の人々は、そんな糸を使い、根気よく丁寧に紬を織ってきました。大石紬が持つ温もりのある風合いは、こうして生まれるのです。 大石紬のもう一つの特徴として、独特な光沢があげられます。糸は富士山麓に自生する草木で染められます。染めは水に大きく左右されます。大石の水は、富士山の雪解け水です。その水が、美しい色と艶を生みます。大石紬にとって、まさに恵みの水です。 取材した時は、12人の織り手がいました。伝統工芸館が出来てからは、自宅にあった機をここに集め、家事や農作業の合間にやって来ては、ここで機織りをしていました。伝統工芸館は、大石紬を織って50年、60年という織り手の手仕事に、直にふれることが出来る貴重な場でもあります。※現在、残っている織り手の平均年齢は80代後半で、大石紬は廃絶の危機にあるようです。

日本の門前町から世界の門前町へ 千葉県成田市

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成田山新勝寺では10年に一度、ご開帳が行われます。最近では2018(平成30)年4月28日から5月28日まで、開基1080年を迎えて記念開帳が行われました。 私はその30年前、開基1050年に当たる1988(昭和63)年に、成田山新勝寺を取材させてもらったことがあります。その年はちょうど、成田空港も開港10周年という記念すべき年になっていました。 成田山は940(天慶3)年、寛朝大僧正の開基と伝えられます。あれ? 計算が合いませんね。 そうなんです。実は、開基1000年に当たる1940年は、『日本書紀』に記されている神武天皇即位から2600年に当たり、国を挙げて紀元2600年祝賀行事が行われることになっていたため、自主的に2年前倒しをして、1938年に開基1000年記念大開帳を実施したのです。 それはともかく、成田山開山当時の関東では、平将門の乱が起こリ、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝が、京から弘法大師の手になる不動明王像を携えて下総に渡リ、公津が原(現・成田市不動ケ岡付近)で、将門降伏の祈願を行いました。そして乱の平定後、堂を建ててこの尊像を安置、新たに敵に勝ったというので、新勝寺と名付けたといいます。 もっとも、成田山が今日のような隆盛をみるのは、後の世、江戸中期のことです。深川弥勒寺の一末寺から、京都・大覚寺直系末寺となリ(現在は真言宗智山派大本山)、1696(元禄9)年の光明堂建立を始めとする建築物の増設、寺域拡大を行った頃からです。同時に、本尊不動明王像と二童子像を厨子に納め江戸に出向く、江戸出開帳も元禄14年に始まリ、江戸市民と成田山の接触を深めました。 また、江戸の人々と成田山を結びつけた人物として、歌舞伎の初代市川團十郎の名も忘れることは出来ません。子宝に恵まれなかった初代團十郎は、成田不動に願をかけ、一子をもうけたといいます。そしてこの「不動の申し子」と言われる2代目を授かった後、團十郎は成田不動にまつわる宗教劇を演じ、これが当たって、市川團十郎の名を文字通リ不動のものにし、それと同時に、成田山の名も江戸市民の中に浸透したのです。 こうして、成田山信仰が盛んになるにつれ、それまで純農村であリ、鹿島、香取詣の通リ道にすぎなかった成田も、門前町として急速に都市化してきました。そして今では、長野の善光寺、香川の金刀比羅と並び、日本を代表する門前町となっている

早明戦二つの引き分け(その2)1990年・今泉の70m独走トライ

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1975年の引き分けに関連して、藤原とか、植山とかの話を書いているうち、記事がだいぶ長くなってしまったので、90年の引き分けについては、記事を改めました。 さて、1990年は、早稲田が東芝府中を破り日本一となった時の1年生トリオ・SH堀越正巳、CTB藤掛三男(早明戦はけがで欠場)、FB今泉清と、翌年からWTBに定着した郷田正が最上級生になった年でした。また、明治も1年から早明戦に出場しているWTB吉田義人を始め、No8富岡洋、HO西原在日などが4年生としてチームを引っ張りました。この他、早稲田にはFL相良南海夫、WTB増保輝則、明治にはFL小村淳、SH永友洋司、CTB元木由記雄らが在籍し、早明戦に出場しました。 試合は、明治がPGで先制しましたが、早いうちに早稲田が3本のPGを入れ、9対3とリード。しかし、ここから明治が反撃。前半33分、明治ボールのラインアウトを早稲田が奪い、CTB石井が突進。これを明治CTB元木が止め、ルーズボールを明治が確保。そのままカウンターに移り、ラインが出来ていなかった早稲田はやすやすと明治FB小杉山英克の突破を許し、フォローした明治SH永友がオープンスペースにボールをキック。ゴール手前で郷田と増保がボール処理を誤り、もたついているところへ、後ろから走ってきた永友がごっつあんトライ。更に、明治がPGを決めて、前半は明治1点リードでハーフタイムへ。 後半に入ると、明治がPG2本を決め、更に後半22分、早稲田ゴール前のスクラムを明治が押し、最後はFL小村がトライ。早稲田はPGを1本返すのが精一杯で、31分には、明治FWがモールを押し込んで、No8富岡がトライ。トライ後のゴールはいずれも決まりませんでしたが、この時点で明治24点、早稲田12点のダブルスコアに。試合は完全に明治ペースとなり、誰もが、たぶん明治の選手たちもほとんどが、明治の勝利を確信したに違いありません。 しかし、ここから劇的な幕切れが用意されていたのです。 残り5分。ラインアウトで明治のペナルティー、堀越ちょんげりでスタート。早稲田がボールを回すも前へ進めず。残り4分。明治ラインオフサイドのペナルティー。堀越ちょんげりで自ら前進、フォローしたCTB吉雄潤が前進。ラックになったところでボールが出ず、早稲田ボールのスクラム。早い球出しから今泉が突進。その前に明治ペナルティーで、堀越ち

早明戦二つの引き分け(その1)1975年・藤原のダイビングトライ

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前の記事「雪の早明戦」で、70年代から90年代にかけて、ラグビー早明戦が大変な人気となっていたことを書きました。この試合、もし明治も対抗戦を全勝できていたら、インジュアリータイムに入って早稲田がゴール前でペナルティーを犯したところで、明治はPGを狙い、決まれば引き分け両校優勝となっていたでしょう。 実は、全勝同士の早明戦で引き分け、両校優勝となったことが、2度あります。1975年と90年で、75年は10対10、90年は24対24でした。100年近い早明戦の歴史の中で、引き分け自体、この2回しかありません。 1975年は、早稲田の藤原優、明治の松尾雄治が、共に最上級生の年でした。12月7日の早明戦でも、松尾が難しい角度からのPGを決めれば、藤原が同点トライを挙げるなど、日本のラグビー史上、最高のウイング、最高のスタンドオフとも称される二人の対決だけでも、本当に見応えのあるゲームでした。 試合は前半17分、早稲田が自陣ゴール前のスクラムでノットストレートの反則を犯し、SO松尾がPGをきっちり決めて、明治が先制。これに対して、早稲田は3回のPGがあったものの、FB畠本裕士が2回続けて失敗し、3回目はWTB藤原が代わりに蹴るも、これも失敗。なかなか追いつくことが出来ませんでした。 そんな中、前半32分、明治が自陣でのドロップキックをミス。ゴール正面22mライン上で早稲田ボールのスクラムとなり、早稲田は両ウイングが左右に開く一方、SO、両CTB、FBの4人が、スクラムの真後ろに並ぶ、縦十字のフォーメーションを取り、スクラムから出たボールをSH辰野登志夫が、真後ろのSO星野繁一にパス。星野は迷わずDGを蹴り、これが決まって同点となります。 後半は、一進一退の攻防の後、22分、早稲田が自陣ゴール前でオーバーザトップのベナルティーを犯し、ほとんど角度のない難しい位置からのPGを松尾が決めて、明治が勝ち越し。しかし、直後の早稲田キックをキャッチした明治が、オフサイドの反則で早稲田FB畠本がPGを決め、再び同点。 更に後半25分、明治がゴール前に上げたハイパントのこぼれ球を、明治が拾い、左に展開して明治のWTB井川芳行が左隅にトライ。松尾のゴールは失敗して、10対6で明治がリード。 後半32分、明治陣の右サイドで早稲田ボールのラインアウト。スロワーはFL豊山京一で、ショートラインアウト

1987年「雪の早明戦」

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日本ではずっと野球人気が高く、他のスポーツに比べ、注目度は雲泥の差がありました。その中にあって、プロ野球シーズン終了後のウィンタースポーツと言えば、1993年のJリーグ開幕まで、ラグビーが王者に君臨していました。 特に、1970年代から90年代にかけて、12月第1日曜日に開催されるラグビー早明戦は、風物詩とさえ呼べるレベルで、ウィンタースポーツ最大のイベントとなっていました。 正直、その後の大学選手権、日本選手権は、おまけ的な意味合いさえあった感じがします。しかし、それが年々エスカレート。早明戦が国立競技場で開催されるようになったのは、1973年に秩父宮ラグビー場が改修されることになったためですが、秩父宮では観客が収容しきれないこともあり、国立開催が常態化しました。 それでも、早明戦のチケットは、マスコミから「狂騒曲」と形容されるほど入手困難になり、一種の社会現象となっていました。1982年の早明戦は、主催者発表で6万5000人、実際は、旧国立競技場の観客動員記録となる6万6999人が入場しました。 そんな中、前の記事で書いたように、88年の日本選手権では、早稲田が日本一に輝きました。これが、学生最後の日本一となるわけですが、実は、その前年に行われた早明戦が、後世に語り継がれる一戦となっていたのです。 1987年12月6日、この日の国立競技場は、前夜から当日朝にかけて降った雪のため、グラウンドはぬかるみ、周りにはグラウンドから除かれた雪が積み上がっていました。12月に都心部で積雪があったのは、戦後初めてのことだったようです。そんな環境で行われた早明戦でしたが、やはり伝統の一戦だけあり、6万2000人の大観客が詰め掛け、初の雪中対決を観戦しました。この早明戦を、早稲田は全勝、明治は筑波大学に敗れ1敗で迎えていました。この成績が、ただの雪中対決ではなく、後々まで「雪の早明戦」として語られる伏線となりました。 試合は、明治のキックオフで始まり、開始5分ぐらいまでは、ほとんど早稲田陣地で進みました。と言っても、明治が攻めているという感じでもなく、前半5分過ぎに明治陣深くまでに入った早稲田は、ラックからこぼれたボールをSO前田夏洋が拾ってそのままスペースを突いて前進、フォローしていたCTB今駒憲二が更に前進し、明治タックルでラックになったところを早い球出しで、SH堀越正巳→S

かつてはラグビー日本選手権の日だった1月15日

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1月15日というと、かつてはラグビー日本選手権の日でした。私は小学生の時は野球、中学、高校はバスケットボールと、ラグビー経験は全くないのですが、ラグビー強豪校の大学に入学して以来、バスケットと並んで好きなスポーツになっています。 かつて60年代半ばから70年代半ばまで、高校のラグビー部とサッカー部を交互に舞台とする青春学園シリーズが、日本テレビで放送されていました。有名なのは、主題歌『太陽がくれた季節』が大ヒットした『飛び出せ!青春』(村野武範主演/サッカー部)でしょうが、その後の『われら青春!』(中村雅俊主演/ラグビー部)も、人気を呼んでいました。また、『青春とはなんだ』(夏木陽介/ラグビー部)や『でっかい青春』(竜雷太/ラグビー部)の再放送もあって、ラグビーは結構身近な存在でした。 ちょっと話が迷走しますが、大学1年で、「夏の避暑地で楽しい実習を」という誇大キャッチと、先輩女子部員のハニートラップに引っかかった友人2人と私は、夏休みに山中湖のリゾートホテルで、実習という名のアルバイトをしました。その際、まさしく「夏の避暑地で楽しく」過ごしていた女の子たちを、若気の至りでナンパ。で、友人の一人が、自己紹介で名乗ったのが、片桐でした。片桐は、72年の『飛び出せ!青春』で、剛達人が演じた不良少年の名前でした。友人は、あのドラマを見て、片桐という名前に惚れ込んだらしいのです。今や大学教授ですが、かなりアホな大学生でしたねぇ。 で、肝心の1月15日・日本選手権の話です。 ラグビー日本選手権の歴史は、1961(昭和36)年からのことになるようです(60年度)。ラグビーへの関心を少しでも上げるため、日本一決定戦を行おうとの発想でした。しかし、日本選手権という名で開催するのは時期尚早となって、NHK杯争奪戦として実施されました。この時は、日本協会による推薦で、社会人からは八幡製鉄、大学からは日本大学が出場し、秩父宮ラグビー場で対戦。結果は、八幡製鉄が50対13で勝利を収めました。NHK杯争奪戦は都合3回開催され、これを助走に、63年度から満を持して日本選手権大会が開催されることになりました。 第1回日本選手権は、社会人と大学それぞれ2チーム、計4チームによるトーナメント形式で行われ、64年3月22日に花園ラグビー場で行われた決勝では、同志社大学が近鉄を18対3で破り、第1回日本

シーボルトが、梅雨の神戸で出会ったものとは?

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一昨日の記事( 長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット )で、シーボルトの著書『日本(NIPPON)』に掲載されていた、嬉野の浴場の挿絵を入れましたが、『日本』には他にも、多くの挿絵が載っていました。兵庫県神戸市でも、兵庫津と須磨寺の絵が入っています。 シーボルトは1826(文政9)年2月15日、出島を発ち、オランダ商館長に同行して、江戸へ向かいます。そして、前の記事に書いたように、大村( 長崎を開港したキリシタン大名の本拠地 )、彼杵( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )、嬉野( 長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット )、柄崎( 歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄 )など、長崎街道の宿場を通り、更に下関からは船で室津(現・兵庫県たつの市)に上陸し、再び陸路を歩きます。 そして姫路、加古川、明石を通って、3月11日、兵庫に到着します。兵庫では、須磨神社に参拝、近くで名物の敦盛そばを食べたりしています。その後、生田神社に参拝して、西宮を経由して大坂へ向かいました。江戸に着いたのは4月10日、それから5月18日まで滞在して、帰路に就きます。 兵庫津 復路は、6月15日に兵庫に入り、兵庫津から下関までは船に乗ることになっていましたが、向かい風で出帆出来ず、結局、兵庫に4泊して、19日の夜、兵庫を出帆することになりました。 この6月の神戸というのが、今回のブログの伏線なんですが、その前に、個人的に気になった敦盛そばに触れておきます。 まず須磨寺ですが、これは通称で、正式には上野山福祥寺といいます。須磨は、『源氏物語』に「須磨」の巻があるように、古くから知られており、平安時代前期の886(仁和2)年に建立された寺も、昔から通称で親しまれてきたようです。須磨寺は、源平合戦で「一ノ谷の戦い」が行われた際、源氏の大将源義経の陣地であったと伝えられています。 須磨寺 一ノ谷の戦いは、義経による「ひよどり越えの逆落とし」の奇襲で有名ですが、この合戦で、平清盛の甥・敦盛(16歳)は、源氏方の武将・熊谷直実に討ち取られます。「祇園精舎の鐘の声……」の書き出しで知られる『平家物語』の中で最も有名な逸話、巻第九「敦盛最期」の場面ですね。 須磨寺に残る「義経腰掛の松」は、熊谷直実が討ち取った敦盛の首を、義経が検分する際に腰を掛けた松と伝えられています。その後、須磨寺には敦盛の首塚が祀ら

白と藍のコントラストが美しい肥前三川内焼

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昨日の記事( 長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット )で、多良街道と長崎街道の宿場町として、また有明海の干満差を利用した河港都市として栄えた嬉野市の塩田について触れました。 記事では、塩田は「肥前の窯業地に近かったため、熊本の天草地方で採取した陶石『天草石』を、有明海を経て塩田川から直接運搬」したとしましたが、その天草石を、いち早く陶磁器に使ったと思われるのが、佐世保市にある三川内焼です。 三川内焼の起源は、慶長の役で朝鮮に渡った平戸藩祖・松浦鎮信が、帰国に際し、朝鮮人陶工数十人を連れ帰ったのが始まりです。その中に、優れた技を持つ巨関(こせき)がおり、鎮信の命によって1598(慶長3)年、平戸に窯を開きました。平戸市山中町にある中野窯跡がそれで、県の史跡に指定されています。 巨関と息子の三之丞(後に今村姓を賜る)は、藩主の命により陶石を求めて各地を探索、1637(寛永14)年、平戸から50km離れた三川内に窯を移しました。以米、明治維新の廃藩に至るまで、一貫して平戸藩御用窯として松浦氏の保護下にあり、精妙な陶技が磨かれました。こうした経緯から、三川内焼は「平戸焼」とも称されます。 窯が、平戸から三川内に移された当時、既に大村藩は波佐見で、鍋島藩は有田に陶石鉱を発見し、磁器焼成を行っていました。一方の三川内は、有田や波佐見に隣接しているものの、満足のいく陶石は得られなかったようで、この地で本格的に磁器が焼かれるようになったのは、今村家3代の弥治兵衛(如猿)が、1662(寛文2)年に、肥後(熊本県)の天草石を使うようになってからのことといいます。 天草の陶石は、日本の磁器原料の約80%を占めるほどになっていますが、当時はまだ地元以外ではあまり知られていなかったようです。天草陶石が発見されたのは、江戸初期の1950年頃のことと推測され、当時、幕府直轄領だった天草では、島民が自活のため、陶磁器を焼いていたという記録が残っているそうです。 1922(大正11)年に設立され、天草陶石を採掘・出荷している上田陶石によると、1712(正徳2)年頃、佐賀県嬉野市吉田の製陶業者に天草陶石を供給したのが、製陶原料として使用した初めとされているとのこと。これが、恐らく塩田津に陸揚げされた、最初の天草石だったのではないでしょうか。 一方の三川内では、天草石を直接、早岐の港に陸揚げしていました