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夏冬2度訪ねた「太陽を味方につけた町」北竜

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最初に北竜町を訪ねたのは、夏、ヒマワリ真っ盛りの時期でした。道内の子どもたち約80人が、オホーツク側のサロマ湖から日本海側へ向けて、道内を横断しながらリーダーシップ・キャンプをするというプログラムに同行した時でした。北竜には、その途次に立ち寄り、子どもたちは、「ひまわり迷路」で楽しい時間を過ごしていました。 次に北竜を訪問したのは、厳寒の1月中旬でした。前日に日本海で発生した低気圧が、急速に発達しながら北海道に接近。更にこの低気圧が数年に一度レベルの寒気を呼び込み、北日本は大荒れの天気が予想される時期でした。実際、北竜町では訪問した日の午前中、5時間で25cmの積雪があったそうです。 取材の打ち合わせで連絡を取っていた中島則明さんから、前日に電話があり、北海道は翌日午後から爆弾低気圧の影響で冬の嵐になる可能性があり、最悪の場合、取材予定の活動が延期になることもあり得る、との話でした。心配しながら新千歳空港へ降り立ちましたが、雪は全く降っておらず、所々、青空も見えていました。ただ、空港から北竜町までは距離にして約120km。まだ安心出来ません。 新千歳空港からはエアポートライナーで札幌まで行き、ここで函館本線の特急に乗り換えて滝川へ。乗車時間は合わせて約90分。滝川から北竜まではバスです。札幌‐留萌間を走る高速バスに乗ると、滝川駅前から北竜役場前までは約25分。途中、所々雪が舞う箇所もありましたが、北竜町は「太陽を味方につけた町」のキャッチコピー通り、青空の下、太陽が顔をのぞかせていました。 役場前で、北竜町議会副議長の山本剛嗣さんと、中島さんと合流後、すぐに現場へ向かいます。この日の活動は、高齢者宅の除雪作業でした。この日は14人のボランティアが、それぞれスコップ持参で参加。3班に分かれ、3軒のお宅で雪はね(雪かき)奉仕を行いました。 北竜町の冬は雪が多く、年に何度かは雪はねが必須。道路に面した玄関前などはショベルカーを使うことも出来ますが、家の裏側は人の手でやるしかありません。しかし、高齢者宅では手が足りず、こうして時々、雪はねボランティアを実施、とても喜ばれています。 元気な人が高齢者をサポート。皆で力を合わせて厳しい冬を乗り切るのが、北竜町流だと皆さん口をそろえています。この時は、そんな町民性、地域性が、取材目的の一つでした。 この後、活動の打ち上げを兼ね、焼...

250年近い歴史を持つ伊予の窯業地・砥部

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砥部町は、愛媛県のほぼ中央、東と西、南の三方を山に囲まれた盆地状の町です。北部は松山平野に向かって開け、重信川を境に松山市に接します。町の中央を砥部川が北流し重信川に合流、瀬戸内海へと下ります。「ミカン王国・愛媛」の中でも一、二の生産量を誇る代表的産地です。と同時に、やきもの産地としても知られています。 砥部では、主に飲食器、花器類の磁器が生産されています。その特色は、白い磁膚に藍の呉須絵にあります。砥部焼の正確な起源は不明ですが、少なくとも江戸中期以来、陶器が焼かれていました。今日のような磁器の製造が始められたのは、1777(安永6)年のことです。 時の大洲藩主、加藤泰候(9代)が、藩財政振興策の一環として始めたものです。伊予郡原町村(現・砥部町)の杉野丈助が、監督としてこれに応じ、有田や波佐見などと共に、磁器の産地として知られていた肥前大村藩・長与の陶工5人を招き、砥部村五本松(現・砥部町五本松)に築窯しました。 砥部は、「伊予砥」の名で中央にも聞こえた砥石の産地でした。泰候は、肥後の天草砥石を原料にして、肥前各地で磁器が生産されていることを知り、伊予砥でも磁器が作れないかと考えたのです。そして、5人の指導を受け、3年近い歳月を経て出来上がったのが、1777年でした。 最初に窯が築かれた五本松は、今も砥部焼の中心地で、周辺を合わせて30数戸の窯元が軒を連ねます。南に高くそびえる障子山(885m)を背景に、庭で天日乾燥する情景は、「陶芸の町」砥部らしい情趣が漂います。 藩政期においては、主に染付を量産しました。俗に「くらわんか茶碗」というものがありますが、これは摂津国枚方(大阪府枚方)付近で、淀川通いの船に酒食を売る船で用いた粗磁の茶碗を言います。初期のものは、砥部焼が多く使用されたということです。 砥部の窯業が、地場産業として確立したのは、明治に入ってからのことです。1875(明治8)年、良質の原料陶石「万年石」が発見され、急速に発展しました。主に、東南アジアへの輸出が始まリ、大正の頃には輸出が総生産の7割を占めた時期もあります。茶碗は特に「伊予ボール」として人気がありました。その後、時代の波を受けつつも、昭和40年代の民芸ブームによリ窯数も増え、1976(昭和51)年には国の伝統的工芸品に指定され、今日に至っています。 若い頃、撮影に協力して頂いた故酒井芳美さ...

富士山麓、素朴な山里の雰囲気を残す手織り紬の里 山梨県富士河口湖町

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山梨県南部、富士山の北麓に半円を描くような形で、山中、河口、西、精進、本栖のいわゆる富士五湖が連なります。富士山を望む湖として、日本で最も有名な湖沼群です。河口湖はその中心で、県内観光のメッカとなっています。 その河口湖北岸に大石という集落があります。湖畔の大石公園からは、湖越しに雄大な富士山が望め、ゆったりとした気分にひたれます。夏には公園にラベンダーが咲き誇り、富士と湖、花の取り合わせがとても美しい場所です。 その大石公園から、山側に向かって少し入った辺りに、大石紬伝統工芸館があります。私が取材した頃は、周辺にまだ茅葺きの家が残り、素朴な山里の雰囲気を残していました。今はさすがに、ほとんどの家が、トタンなどで屋根を覆わってしまったようですが、古くからの手織り紬の里にふさわしいたたずまいが感じられました。 そして、そんなたたずまい通り、大石では今も、蚕を育て、繭を採り、糸を紡いで染めています。昔ながらの農家の機織りの姿を、最もよく伝えているのが、この大石紬だと言われます。 大石紬には玉繭が使われます。玉繭というのは、一つの繭に二つのさなぎが入っているもので、昔は屑繭と呼ばれました。太く、節の多い糸が出来ます。節があるからねばって切れやすく、手間がかかって織るのに苦労するのだといいます。大石の人々は、そんな糸を使い、根気よく丁寧に紬を織ってきました。大石紬が持つ温もりのある風合いは、こうして生まれるのです。 大石紬のもう一つの特徴として、独特な光沢があげられます。糸は富士山麓に自生する草木で染められます。染めは水に大きく左右されます。大石の水は、富士山の雪解け水です。その水が、美しい色と艶を生みます。大石紬にとって、まさに恵みの水です。 取材した時は、12人の織り手がいました。伝統工芸館が出来てからは、自宅にあった機をここに集め、家事や農作業の合間にやって来ては、ここで機織りをしていました。伝統工芸館は、大石紬を織って50年、60年という織り手の手仕事に、直にふれることが出来る貴重な場でもあります。※現在、残っている織り手の平均年齢は80代後半で、大石紬は廃絶の危機にあるようです。

日本の門前町から世界の門前町へ 千葉県成田市

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成田山新勝寺では10年に一度、ご開帳が行われます。最近では2018(平成30)年4月28日から5月28日まで、開基1080年を迎えて記念開帳が行われました。 私はその30年前、開基1050年に当たる1988(昭和63)年に、成田山新勝寺を取材させてもらったことがあります。その年はちょうど、成田空港も開港10周年という記念すべき年になっていました。 成田山は940(天慶3)年、寛朝大僧正の開基と伝えられます。あれ? 計算が合いませんね。 そうなんです。実は、開基1000年に当たる1940年は、『日本書紀』に記されている神武天皇即位から2600年に当たり、国を挙げて紀元2600年祝賀行事が行われることになっていたため、自主的に2年前倒しをして、1938年に開基1000年記念大開帳を実施したのです。 それはともかく、成田山開山当時の関東では、平将門の乱が起こリ、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝が、京から弘法大師の手になる不動明王像を携えて下総に渡リ、公津が原(現・成田市不動ケ岡付近)で、将門降伏の祈願を行いました。そして乱の平定後、堂を建ててこの尊像を安置、新たに敵に勝ったというので、新勝寺と名付けたといいます。 もっとも、成田山が今日のような隆盛をみるのは、後の世、江戸中期のことです。深川弥勒寺の一末寺から、京都・大覚寺直系末寺となリ(現在は真言宗智山派大本山)、1696(元禄9)年の光明堂建立を始めとする建築物の増設、寺域拡大を行った頃からです。同時に、本尊不動明王像と二童子像を厨子に納め江戸に出向く、江戸出開帳も元禄14年に始まリ、江戸市民と成田山の接触を深めました。 また、江戸の人々と成田山を結びつけた人物として、歌舞伎の初代市川團十郎の名も忘れることは出来ません。子宝に恵まれなかった初代團十郎は、成田不動に願をかけ、一子をもうけたといいます。そしてこの「不動の申し子」と言われる2代目を授かった後、團十郎は成田不動にまつわる宗教劇を演じ、これが当たって、市川團十郎の名を文字通リ不動のものにし、それと同時に、成田山の名も江戸市民の中に浸透したのです。 こうして、成田山信仰が盛んになるにつれ、それまで純農村であリ、鹿島、香取詣の通リ道にすぎなかった成田も、門前町として急速に都市化してきました。そして今では、長野の善光寺、香川の金刀比羅と並び、日本を代表する門前町となっている...

シーボルトが、梅雨の神戸で出会ったものとは?

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一昨日の記事( 長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット )で、シーボルトの著書『日本(NIPPON)』に掲載されていた、嬉野の浴場の挿絵を入れましたが、『日本』には他にも、多くの挿絵が載っていました。兵庫県神戸市でも、兵庫津と須磨寺の絵が入っています。 シーボルトは1826(文政9)年2月15日、出島を発ち、オランダ商館長に同行して、江戸へ向かいます。そして、前の記事に書いたように、大村( 長崎を開港したキリシタン大名の本拠地 )、彼杵( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )、嬉野( 長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット )、柄崎( 歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄 )など、長崎街道の宿場を通り、更に下関からは船で室津(現・兵庫県たつの市)に上陸し、再び陸路を歩きます。 そして姫路、加古川、明石を通って、3月11日、兵庫に到着します。兵庫では、須磨神社に参拝、近くで名物の敦盛そばを食べたりしています。その後、生田神社に参拝して、西宮を経由して大坂へ向かいました。江戸に着いたのは4月10日、それから5月18日まで滞在して、帰路に就きます。 兵庫津 復路は、6月15日に兵庫に入り、兵庫津から下関までは船に乗ることになっていましたが、向かい風で出帆出来ず、結局、兵庫に4泊して、19日の夜、兵庫を出帆することになりました。 この6月の神戸というのが、今回のブログの伏線なんですが、その前に、個人的に気になった敦盛そばに触れておきます。 まず須磨寺ですが、これは通称で、正式には上野山福祥寺といいます。須磨は、『源氏物語』に「須磨」の巻があるように、古くから知られており、平安時代前期の886(仁和2)年に建立された寺も、昔から通称で親しまれてきたようです。須磨寺は、源平合戦で「一ノ谷の戦い」が行われた際、源氏の大将源義経の陣地であったと伝えられています。 須磨寺 一ノ谷の戦いは、義経による「ひよどり越えの逆落とし」の奇襲で有名ですが、この合戦で、平清盛の甥・敦盛(16歳)は、源氏方の武将・熊谷直実に討ち取られます。「祇園精舎の鐘の声……」の書き出しで知られる『平家物語』の中で最も有名な逸話、巻第九「敦盛最期」の場面ですね。 須磨寺に残る「義経腰掛の松」は、熊谷直実が討ち取った敦盛の首を、義経が検分する際に腰を掛けた松と伝えられています。その後、須磨寺には敦盛の首塚が祀ら...

白と藍のコントラストが美しい肥前三川内焼

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昨日の記事( 長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット )で、多良街道と長崎街道の宿場町として、また有明海の干満差を利用した河港都市として栄えた嬉野市の塩田について触れました。 記事では、塩田は「肥前の窯業地に近かったため、熊本の天草地方で採取した陶石『天草石』を、有明海を経て塩田川から直接運搬」したとしましたが、その天草石を、いち早く陶磁器に使ったと思われるのが、佐世保市にある三川内焼です。 三川内焼の起源は、慶長の役で朝鮮に渡った平戸藩祖・松浦鎮信が、帰国に際し、朝鮮人陶工数十人を連れ帰ったのが始まりです。その中に、優れた技を持つ巨関(こせき)がおり、鎮信の命によって1598(慶長3)年、平戸に窯を開きました。平戸市山中町にある中野窯跡がそれで、県の史跡に指定されています。 巨関と息子の三之丞(後に今村姓を賜る)は、藩主の命により陶石を求めて各地を探索、1637(寛永14)年、平戸から50km離れた三川内に窯を移しました。以米、明治維新の廃藩に至るまで、一貫して平戸藩御用窯として松浦氏の保護下にあり、精妙な陶技が磨かれました。こうした経緯から、三川内焼は「平戸焼」とも称されます。 窯が、平戸から三川内に移された当時、既に大村藩は波佐見で、鍋島藩は有田に陶石鉱を発見し、磁器焼成を行っていました。一方の三川内は、有田や波佐見に隣接しているものの、満足のいく陶石は得られなかったようで、この地で本格的に磁器が焼かれるようになったのは、今村家3代の弥治兵衛(如猿)が、1662(寛文2)年に、肥後(熊本県)の天草石を使うようになってからのことといいます。 天草の陶石は、日本の磁器原料の約80%を占めるほどになっていますが、当時はまだ地元以外ではあまり知られていなかったようです。天草陶石が発見されたのは、江戸初期の1950年頃のことと推測され、当時、幕府直轄領だった天草では、島民が自活のため、陶磁器を焼いていたという記録が残っているそうです。 1922(大正11)年に設立され、天草陶石を採掘・出荷している上田陶石によると、1712(正徳2)年頃、佐賀県嬉野市吉田の製陶業者に天草陶石を供給したのが、製陶原料として使用した初めとされているとのこと。これが、恐らく塩田津に陸揚げされた、最初の天草石だったのではないでしょうか。 一方の三川内では、天草石を直接、早岐の港に陸揚げしていました...

長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット

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昨年暮れ、長崎街道の大村宿( 長崎を開港したキリシタン大名の本拠地 )と彼杵宿( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )について書き、その後、武雄(柄崎宿/ 歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄 )の話に続けました。本来なら、彼杵宿と柄崎宿の間に、嬉野宿があるのですが、嬉野は、一昨年11月に記事( エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉 )を書いていたので、パスしてしまいました。でも、一つだけ飛ばすのも何か気持ちが悪いので、今回は、宿場町としての嬉野に絞って書いてみます。 大村湾沿いの彼杵宿から嬉野宿への行程は、山道になります。大村藩と佐賀藩の境となる俵坂峠を越えると、俵坂番所跡があります。敷地面積200余坪、侍1名と足軽9名が監視に当たり、特にキリシタンの取り締まりは厳しかったといいます。長崎に、日本最初の商社と言われる亀山社中を結成した坂本龍馬も、この峠を通ったことでしょう。 俵坂番所跡から、嬉野宿の西構口跡までは約1里(4km)です。構口(かまえぐち)というのは、宿場の東西にある出入口のことで、上り方面を東、下り方面を西としました。 嬉野宿の西構口は、1925(大正14)年創業の老舗温泉旅館・大正屋の前、東構口は、1950(昭和25)年開業の和多屋別荘の本通り入口前にあったとされます。東西構口の間は約500m、ここが嬉野の宿場町で、30軒余りの旅籠や木賃宿の他、商家など100軒ほどの家並が続いていました。 当時は、宿場の中央付近に豊玉姫神社があり、その隣に御茶屋(上使屋)がありました。上使屋というのは、参勤交代の大名や上級武士、幕府の役人などを接待する場所で、佐賀藩では嬉野宿を始め20カ所ほど用意していたといいます。嬉野の上使屋は、武雄と共に温泉付きだったらしく、スペシャルな御茶屋だったようです。 上使屋は、宿泊所も兼ねていましたが、嬉野の上使屋は手狭だったため、街道から北へ300mほどの場所にある瑞光寺を本陣として使っていました。1862(文久2)年に、豊玉姫神社境内の一部を取り入れて拡張しましたが、その5年後には大政奉還が行われます。そして1871(明治4)年の廃藩置県後、上使屋は民間に払い下げられ、塩屋という嬉野第一の旅館となりました。 ちなみに、塩屋は1922(大正11)年の嬉野大火で焼失、その後、和多屋旅館となり、それを継承したのが...

日本三古湯の一つ道後温泉の話と真穴みかん

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昨年暮れに書いた松山の記事( 松山・大街道の大入亭からバー露口へ )で、大入亭のカウンターで隣り合った地元の方から、バー露口を紹介された話を披露しました。で、そのお客さんは、道後温泉にあるホテルの社長で、「良かったら、うちのお風呂に入って行ってください」と、帰り際に名刺を渡されました。 初めて会った人間に、とても親切な申し出をしてくださったのですが、翌日は朝から砥部焼の取材が入っていたため、残念ながらお風呂をお借りすることはありませんでした。 道後温泉は、古代からその存在が知られ、日本三古湯の一つと言われています。夏目漱石の『坊つちやん』(1905年)でも、「住田」という温泉場として何度も登場します。ちょっと、抜き出してみましょう。 「住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた」 前の記事( 漱石にも勧めたい「坊っちゃん団子」 愛媛県松山 )に書いた「坊ちゃん団子」は、この部分にちなんでつくられたお菓子です。で、まだあります。 「おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来たものだから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛ける」 更に、住田という固有名詞ではなく、温泉になると、これがもう、あちこちに出てくるわけです。「温泉は三階の新築で上等な浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む」とか、「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」「温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壺へ下りてみたら」などなど・・・。 この3階建ての温泉というのが、有名な道後温泉本館です。漱石が、旧制松山中学に英語教師として赴任したのは、1895(明治28)年のことで、道後温泉本館は、その前年、94年に改築したばかりでした。建物は、松山城の城大工棟梁の家系である坂本又八郎が設計しました。 道後温泉本館は、いわゆる銭湯ですが、1994(平成6)年に国の重要文化財に指定されながら、今も現役の公衆浴場として営業をしています。2007(平成19)年に地域団体商標(地域ブランド)として認定さ...

江戸の面影を今に伝える中山道、木曽路の宿場町

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中山道69宿は江戸幕府が整備した5街道の一つで、日本橋から武蔵、上野、信濃、美濃の国々を通り近江の草津で東海道と合流して、京都の三条大橋へ至ります。中部山岳地帯を通る中山道は太平洋岸の東海道に比べて難所が多く、中でも木曽路は難所続きの厳しい道のりでした。 木曽路は、現在の長野県塩尻市桜沢から岐阜県中津川市馬籠までの約90kmで、その間に宿場は11あります。駒ケ岳を主峰とする中央アルプスと御岳山を主峰とする北アルプスの間に深く刻まれた谷間を縫い、幾度も険しい峠を越えます。江戸時代の旅人は、だいたいが2泊3日で歩きました。中山道が国道19号になった現在でも、木曽路には往時の街道の雰囲気が残ります。中でも宿場の景観をよくとどめているのが奈良井(塩尻市)と妻籠(南木曽町)。いずれも国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。 江戸から数えて34番目、木曽路に入って2番目の奈良井宿は、標高が940mと木曽11宿で最も高い宿場です。両側に山が迫り、行く手には道中きっての難所、鳥居峠が控えています。木曽路最大の宿場町で、「奈良井千軒」とうたわれるほど賑わいました。 奈良井川沿いの旧街道にはおよそ1kmにわたって、2階のひさしがせり出した出梁造の商家や旅籠が連なります。現在の家並みは1837(天保8)年の大火後のもので、本陣や上問屋、道が直角に折れ曲がる鍵の手など宿場の姿をそのまま残しています。 「木曽路はすべて山の中である」。島崎藤村『夜明け前』の書き出しです。 ちきりや7代目手塚万右衛門の手塚英明氏 山に囲まれた木曽の産業の中心は、ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキの木曽五木に代表される木材です。木曽漆器は600年余り前に木曽福島の八沢で作られたのが起源とされます。400年ほど前からは奈良井の北側にある平沢集落(塩尻市木曽平沢)でも漆塗りが行われ、やがては主産地となりました。江戸時代には奈良井宿を往来する旅人の土産物として人気を集めます。木曽漆器は、ヒノキやサワラなどの材を使い、主に木肌の美しさが引き立つ木曽春慶塗の手法が用いられます。 明治初めには、下地の材料となる「錆土」と呼ばれる粘土が奈良井で発見され、他の産地よりも堅牢な器が作られるようになり、飛躍的な発展を遂げました。旅館や料理屋などの業務用として需要が高まり、輪島や会津若松と並ぶ漆器産地としての地位を...

名水とオオムラサキの里・長坂で味わうこだわりのそば

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以前の記事( 日本ワインの革命児・ウスケボーイズを探して )にも書きましたが、北杜(ほくと)市は山梨県最北端、八ケ岳や甲斐駒ケ岳といった山々に囲まれ、ミネラルウォーター生産量と日照時間がいずれも日本一という豊かな自然に恵まれた町です。北杜の「杜」は、バラ科の落葉小高木「やまなし」のことで、山梨県の北部という意味で市名となりました。 面積は山梨県で最も広い602.5km2で、私が住んでいる越谷市(60.2km2)のちょうど10倍もの広さがあります。というのも、平成の大合併で8町村が合併して生まれた市だからでです。ただ、それだけ多くの自治体が合併したため、どこが中心なのか、イマイチ分からないというのが、正直なところです。市政の中心は旧須玉町ですが、位置的に市の中心にあり、交通の要衝となっているのは旧長坂町、避暑地として有名な清里高原は旧高根町、八ケ岳高原の表玄関で、小海線の起点となる旧小淵沢町など、いろいろな顔を持っています。 前の記事は、このうち主に須玉の津金地区についてのものでした。今回は、その時にも少し触れた三分一湧水(さんぶいちゆうすい)のある長坂について書きます。 長坂は、戦国武将・長坂氏の領地で、長坂郷と呼ばれていました。中央本線長坂駅から2kmほど南の場所が、長坂氏の居館だった長坂氏屋敷跡とされています。館が築かれた年代は定かではありませんが、長坂氏が、長坂郷に居住し始めたのは、永正元(1504)年以降と言われています。その頃の甲斐は、武田信玄の父・信虎(当時は信直)が、兄・信昌の死に伴い家督を継ぎ、武田宗家の統一を経て、甲斐統一に向けて動き始めた時代でした。長坂氏は、その武田氏の家臣で、中でも名前が知られる長坂光堅(釣閑斎)は、信玄・勝頼父子に仕え、特に勝頼には、補佐役として重用されました。1582(天正10)年の織田信長による武田攻めで、勝頼と共に自刃したとも、甲府で信長により処刑されたとも言われ、その最期についてはよく分かっていません。 武田氏滅亡後、甲斐国は織田・豊臣・徳川と支配が移り、江戸時代には甲州街道が整備され、江戸防衛の拠点として甲府藩が成立し、徳川一族や譜代大名が配置されました。その後、江戸中期に幕府直轄地となり、明治維新を迎えます。 更に明治、大正には、輸出の原動力・生糸の一大拠点甲信地方と横浜港を結ぶため、横浜線や中央線など鉄道が次々...