250年近い歴史を持つ伊予の窯業地・砥部
砥部では、主に飲食器、花器類の磁器が生産されています。その特色は、白い磁膚に藍の呉須絵にあります。砥部焼の正確な起源は不明ですが、少なくとも江戸中期以来、陶器が焼かれていました。今日のような磁器の製造が始められたのは、1777(安永6)年のことです。
時の大洲藩主、加藤泰候(9代)が、藩財政振興策の一環として始めたものです。伊予郡原町村(現・砥部町)の杉野丈助が、監督としてこれに応じ、有田や波佐見などと共に、磁器の産地として知られていた肥前大村藩・長与の陶工5人を招き、砥部村五本松(現・砥部町五本松)に築窯しました。
砥部は、「伊予砥」の名で中央にも聞こえた砥石の産地でした。泰候は、肥後の天草砥石を原料にして、肥前各地で磁器が生産されていることを知り、伊予砥でも磁器が作れないかと考えたのです。そして、5人の指導を受け、3年近い歳月を経て出来上がったのが、1777年でした。
最初に窯が築かれた五本松は、今も砥部焼の中心地で、周辺を合わせて30数戸の窯元が軒を連ねます。南に高くそびえる障子山(885m)を背景に、庭で天日乾燥する情景は、「陶芸の町」砥部らしい情趣が漂います。
藩政期においては、主に染付を量産しました。俗に「くらわんか茶碗」というものがありますが、これは摂津国枚方(大阪府枚方)付近で、淀川通いの船に酒食を売る船で用いた粗磁の茶碗を言います。初期のものは、砥部焼が多く使用されたということです。
砥部の窯業が、地場産業として確立したのは、明治に入ってからのことです。1875(明治8)年、良質の原料陶石「万年石」が発見され、急速に発展しました。主に、東南アジアへの輸出が始まリ、大正の頃には輸出が総生産の7割を占めた時期もあります。茶碗は特に「伊予ボール」として人気がありました。その後、時代の波を受けつつも、昭和40年代の民芸ブームによリ窯数も増え、1976(昭和51)年には国の伝統的工芸品に指定され、今日に至っています。
若い頃、撮影に協力して頂いた故酒井芳美さんに、25年ぶりにお話を伺う機会がありました。酒井さんは、1931(昭和6)年に愛媛県砥部町で誕生。五松園窯を継承し、号は酒井芳人。伝統工芸士(ロクロ部門)、愛媛県無形文化財保持者、日本工芸会正会員、一水会陶芸部委員、愛媛県美術会参与、現代の名工(2000年)など、砥部焼の重鎮でした。お話を伺った2013年には、息子の好史さん、孫の亮太さんと共に、3世代でさまざまな磁器を制作していました。以下は、その時に酒井さんが語られた話の抜粋です。「昔は大勢の職人を抱える大きな窯元が七つか八つあり、分業で焼いていたようです。私の祖父はその一つ『愛山窯』という全国的にも有名だった窯元で絵付師として働いていました。しかし、大正時代の終わりに愛山窯が倒産してしまい、祖父は県立工業試験場長を勤めた後、1931(昭和6)年に窯を構えて独立しました。砥部には現在、組合に入っていない人も含めると100軒ほどの窯元がありますが、それらの多くも祖父と同じように大きな窯から独立した人たちです。
祖父は楽焼の装飾品や皿などの生活陶器を作っていました。母方の祖父だったんですが、女系家族であったことから、長女の子どもである私が、5歳か6歳の時に養子として入ったそうです。私は17歳の頃から少しずつ仕事を教わり、祖父が倒れたこともあって、21歳で跡を継ぐことになりました。そのため、当初は私も祖父と同じようなものを焼いていました。本焼を始めたのは30代になってからです。若い陶工で『陶和会』という会を作り、一緒に勉強をしたり、技術を教え合っていました。私がろくろを学んだのも陶和会でした。そうしたことを経て、いろいろなものにチャレンジして、自分自身、納得いくようなものが出来るようになったのは、40代になってからですね。
私が主に作っているのは、白磁の中でも青白磁と呼ばれるものです。「影青」とも言って、釉薬が文様の溝にたまって青みを帯びている磁器のことです。具体的には、最初にロクロをひいて、軟らかいうちに櫛で草花などの彫り模様を入れます。その後、竹や桜の木で作った薄いへらで手跡が残らないよう奇麗に成型し、それを一度素焼きにして、更に青白釉をかけて本焼きにします。そうすると、櫛で彫った所に釉薬がたまり、青が沈むというか、青がより濃くなって現れるわけです」
酒井芳美さんは、2019年7月9日、肺がんのため砥部町の病院で亡くなられました。
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