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起動しなくなったMacの復活とMojaveで使えるiMovieの捜索

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先日突然、それまで使っていたMac mini(High Sierra)が起動しなくなりました。その少し前から、やや動作が遅くなった感はあったのですが、作業に支障を来すほどでもなかったので、そのまま使い続けていました。 症状としては、一応、高らかに起動音を鳴らして、スタートし始めるのですが、それが遅々として進みません。あまりに遅いので、いったん強制終了して、PRAMのクリアなど、思いつく限りの手段を講じてみましたが、全く効果なし。仕方なく、しばらく放置して様子見。だいぶ時間が経ってから覗くと、つかえていた部分を何とか乗り越え、進行状況を示すバーが進んでいました。その後も辛抱強く待ち、バーは少しずつ進んでいましたが、結局は、最後の最後で、頑として動かなくなります。 そこで、もう1台のMac mini(Mojave)用の外付起動ディスクを持ってきて、それをつないで起動してみました。すると無事に起ち上がり、DiskFirstAidで修復を試みましたが、本体のHDDは物理的に障害が出ているようでした。まあ、古いので仕方ないか、と。 もともと、本体のHDDには、ほとんどファイルはなく、外付HDDに保存していたので、大きな問題はなかったのですが、それでも外付に移していない、作業中のファイルもあったので、それを救出すると共に、アカウント関係など、設定をそのまま移行させることが出来そうな状態になりました。 MojaveのMac miniは、リビングのテレビにつないで、時々ネットをするぐらいだったのですが、激遅だったため、起動するのも嫌になるほどでした。そこで、ポータブルSSDを買ってきて、それを起動ディスクにしたところ、体感速度で10倍ぐらい速い、超速Macになったので、夢よもう一度、こちらもポータブルSSDを起動ディスクにしようと目論んだわけです。 ちょうど近くのノジマで、バッファローのSSD-PG480U3-BAを安く売っていたので、それを買ってきて、起動ディスク用にフォーマット。そして、本体にダウンロードしておいたOS(Mojave)を、外付SSDにインストールし、移行アシスタントを実行しました。 これによって、外付SSDを起動ディスクとして、起動しなくなったMac miniが使えるようになり、更には以前より早くなったので、万々歳という感じでした。しかし、一つだけ、困ったことが

寄ってみたら思い切り不思議空間だった盛岡大仏

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昨日の記事( 神秘的な地底湖がある龍泉洞と、迷宮型鍾乳洞の安家洞 )に書いたように、震災後の2011年6月19日に、取材のため岩手県の盛岡と岩泉をレンタカーで往復しました。その途次、国道455号沿いの丘に、大仏さんの頭が見え、入口に「盛岡大仏」と書かれた道しるべがあったので、帰り道に寄ってみることにしました。 岩泉から盛岡へ戻る場合、大仏さんは右手になり、参道入口に「松園寺」と書かれた大きな石碑がありました。山門の手前からも見えていたのですが、参道には文字が書かれた石板がずーっと連なっていました。ざっと見た感じ、歌碑のようで、啄木の文字が見えたので、盛岡だけに、と思ったのですが、数から言うと、とてもそれだけではないようです。しかも、「盛岡大仏」の矢印があった盛岡側の入口付近は、なにやら格言的なものもあり、統一感はなさそうです。 で、大仏さんですが、こちらは丘の上に鎮座していました。この大仏については、松園寺のウェブサイトに、次のような説明がありました。「奈良の大仏に匹敵する大きさと言われている盛岡大仏は平成11年7月に開眼式を行いました。その材質は青銅でできており、高さは約17メートル。重さは花崗岩の台座含めて約170トン。韓国の技術者12人が約2ヵ月の協力を得て、総工費7億円をかけて建立されました。この盛岡大仏の施主である開基 樋下正光氏は家内安全、無病息災、商売繁盛、交通安全の4つの願いを込めております」 これだけなら、「ふむふむ」で終わりなんですが、実は大仏さんの周辺が、どうにもこうにもおかしな具合で・・・。木像や石像、ブロンズ像など、材質がさまざまな像が点在しているのです。しかも、不動明王や達磨大師、くだけた感じの寿老人に首から下が八岐大蛇になっている十一面観音菩薩、また鑑真的座像や良寛的立像があるかと思えば、楠木正成騎馬像もあったりして、石板同様、その統一感のなさに戸惑うばかり。もちろん、石板の方も、生活習慣病対策の標語みたいな「味はうすめに腹八分」だったり、ことわざの「にわとりははだし」だったりと、負けてはいません。 更に、よくある現代風の銅像があるので、見てみると、盛岡大仏の施主「樋下正光之像」でした。樋下正光さんは、盛岡市にある樋下建設の創業者で、盛岡市議、岩手県議を歴任。で、松園寺自体も、樋下さんが寄進したようです。 現存する世界最古の木造建築物・

神秘的な地底湖がある龍泉洞と、迷宮型鍾乳洞の安家洞

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岩泉町は県東北部、盛岡の中心部から約90km、途中には、以前の記事で書いた「 すずらん給食 」の舞台となった藪川村(現盛岡市玉山区藪川)があります。西は北上高地から東は太平洋まで東西51km、そして南北も41kmと、本州一広い面積を持っています。町には日本三大鍾乳洞の一つで、地底湖の透明度が高いことで有名な龍泉洞があり、観光地としてはもとより、その水がミネラルウォーターとして販売されています。 2011年3月11日の東日本大震災では、沿岸部の小本地区を中心に、死者9人、202棟の家屋が流失または損壊し、漁業を中心に産業も打撃を受けました。その年4月に町営化50周年を迎えた龍泉洞も、震災の影響で地底湖が白濁。洞内の安全点検後、4月27日に営業を開始しましたが、5月の来客数は前年の8割減となっていました。 私は震災の年の6月19日に岩泉を訪問しました。この時は、内陸部のみだったので、途中にあった「すずらん給食」の舞台・藪川小学校には寄れましたが、被害が大きかった沿岸部までは回れませんでした。しかし、仕事の合間を見て、龍泉洞に入ってみました。 龍泉洞は、大規模な地底湖と多彩な鍾乳石群の美しい造形で、秋芳洞(山口県)、龍河洞(高知県)と共に、日本三大鍾乳洞に数えられています。日本の地質百選にも選ばれている他、洞内で生息するコウモリも含め国の天然記念物に指定されています。 龍泉洞の洞内は、既に判明している範囲だけでも4088m以上あり、全容は5000m以上に達すると言われています。一般公開されているのは、そのうちの1200mで、この区間は歩道や照明も整備されていますが、足元は滑りやすいので、注意しながら歩いてください。 龍泉洞の最大の見どころは、透明度の高い地底湖です。鍾乳洞の奥から湧き出る清水が、数箇所にわたって地底湖を形成しており、中でも水深98mの第3地底湖は、世界有数の透明度を誇ります。ライトアップされた湖は、鍾乳洞の名前からドラゴンブルーと名付けられた青みがかった水をたたえています。 この龍泉洞から北へ18kmの場所に、もう一つの鍾乳洞「安家洞(あっかどう)」があります。安家洞は、総延長2万3702mと、日本一長い鍾乳洞として有名です。主洞は東本洞、西本洞、奥本洞の三つに分けられますが、実際には1000本以上の支洞が入り組んでおり、「迷宮型鍾乳洞」と呼ばれています。

白神のブナ林を手軽に探勝出来る岳岱の森

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白神山地は、青森・秋田両県にまたがる広大な山地帯です。面積は約6万5000haに及びます。標高1000m級の山々が峰を連ね、それらの山を、世界でも例を見ないほどの規模で、ブナの原生林が覆っています。 白神山地が全国的に知られるようになったのは、青秋林道建設工事反対運動によってでした。建設工事が始まった1982年、衛星写真によって解析された白神山地の植生分布が、人々を驚かせました。そこには、世界最大級のブナの原生林が、分断されることなく広がっていたのです。これらの貴重な原生的自然環境が認められ、1993年12月、白神山地の中核部1万6971haが、世界自然遺産に登録されました。 白神岳や駒ケ岳を除き、白神山地には基本的に登山道はありません。大半は、けもの道やマタギが使った道です。その中で、一般の人が、白神のブナ林を探勝しようと思ったら、白神岳への登山道となる青森県岩崎村の十二湖周辺と、秋田県藤里町の駒ケ岳山麓・岳岱がいいでしょう。今回は、その岳岱の紹介です。 白神山地には、人為の影響をほとんど受けていない源流域が集中し、水量豊かで清らかな沢が、森の中を縦横に流れています。これら多くの沢水を合わせた黒石沢と、青森・秋田県境の釣瓶落(つるべおとし)峠から発する白石沢とが合流して藤琴川となり、藤里町を蛇行しながら流れ、二ツ井町で米代川に注ぎます。岳岱へ入るには、これを逆にたどればいいわけです。 藤里町からは、藤琴川に沿って県道西目屋・二ツ井線を北上。太良峡入口の標石を過ぎると、黒石沢と白石沢の分岐点があり、左の黒石林道に入ります。5分ほど走ると、左側にサワグルミが群生しているクルミ台キャンプ場が見えてきます。季節がいいと、大きなサワグルミの木陰で、お弁当を広げる人たちでにぎわいます。 キャンプ場のすぐ脇には、黒石沢が流れています。ここら辺りの川床や岩は独特の色をしており、水も、それらの色をとらえて美しく流れています。ここから更に10分ほど走ると、岳岱に着きます。 岳岱は、駒ケ岳北東山麓、標高約620mにあるブナの天然林で、自然観察教育林に指定されています。コケむした巨岩と12haのブナの原生林が調和した美しい森で、1周約30分の観察コースが設けられています。入口は杉の植林ですが、50mほど歩くとブナ林が始まります。 岳岱のブナ林に足を踏み入れて、まず驚くのがブナの根元でしょ

キャラメルのような干し芋「ひがしやま」 高知県大月町

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漢字で書くと「干菓子山」。高知では誰もが知っている干し芋で、中でも大月町竜ケ迫産は絶品と評判です。通常、干し芋というと、スライスした平たい芋(平干し)を思い浮かべる人の方が多いと思いますが、高知の「ひがしやま」は、そのまま干す丸干し派です。 そもそも、干し芋は、静岡県で誕生したもので、それが茨城県に伝わり、爆発的に広がります。そこには、海での遭難が絡んでいます。 江戸も後期に入った1766(明和3)年、薩摩の御用船が駿河の御前崎沖で座礁。その乗組員を大澤権右衛門親子が助け、お礼の金20両を断り、代わりに船にあったサツマイモの種芋を分けてもらい、栽培方法も伝授されました。その後、サツマイモは近隣にも伝わり、1824(文政7)年には、御前崎の付け根辺りにある白羽村(現・御前崎市)の栗林庄蔵が、ゆでたサツマイモを薄く切って干す「煮切り干し」を考案。更に1892(明治25)年頃、天竜川の右岸にある大藤村(現・磐田市)の大庭林蔵と稲垣甚七が、サツマイモを蒸して厚切りにして乾燥させる「蒸切り干し」を考え出し、今日につながる干し芋が誕生しました。 一方、現在の主産地・茨城県に伝わったのも、船の遭難がきっかけでした。1888(明治21)年、阿字ケ浦(現・ひたちなか市)の照沼勘太郎が、静岡県沖で遭難。助けられた土地で見た干し芋をヒントに、1895(明治28)年から見よう見まねで干し芋作りを始めました。その後、1908(明治41)年になって、阿字ケ浦の小池吉兵衛と、湊町(現・ひたちなか市)の湯浅藤七が、本格的に干し芋の製造を開始。これをきっかけに各地で生産が拡大し、今では総生産量の約9割を茨城県が占めるまでになっています。 で、高知の「ひがしやま」ですが、これは、そんな干し芋の概念を完全に覆すシロモノです。いつ頃から作られているのかは分からないのですが、地域によって「ほしか」とか「ゆでべら」とか、いろいろな呼び名があるらしく、結構、古くからあるようです。 「ひがしやま」の語源については、「干してかちかちにするという意味の古い土佐弁『ひがちばる』」からきているという説もあります。でも、大月の「ひがしやま」は、「かちかち」とはほど遠いので、少なくとも大月バージョンは、「ひがちばる」ではなさそうです。また、漢字は「東山」とも書くようですが、大月町のある幡多郡に、かつて東山村(現・四万十市)が

発祥の形にこだわったきんつば「肥後鍔」 熊本

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きんつばというと、四角いものを思い浮かべる人が多いと思いますが、元は丸型でした。しかも、最初は、きんつば(金鍔)ではなく、ぎんつば(銀鍔)だったというのです。 江戸前期の天和年間(1681 - 1684年)に、京都の清水坂辺りの屋台で売られた焼き餅が、庶民の間で流行しました。小豆餡を米粉の生地で包んで焼いたもので、その色と形が刀の鍔に似ていたことから「銀鍔」と呼ばれました。 それが、享保年間(1716 - 1736年)に江戸に伝わり、米粉を小麦粉に変えて焼いたところ、焼き色が付いたことで、「銀より金の方がいい」と、「金鍔」と名付けられたと言われます。江戸時代には、「流石武士の子金鍔を食べたがり」といった江戸川柳もあって、金鍔は、江戸の代表的な菓子になっていたようです。 その後、明治になって、神戸元町の紅花堂(現・本高砂屋)の創業者・杉田太吉が、金鍔を改良して角型のきんつばを考案。これが徐々に広がり、本家も分家もしのいで、一般的になったとされます。一説によると、丸より四角の方が効率よく衣を付けることが出来、一度にたくさん焼けるようになったからだと言われています。 ところで、このブログに何度か登場している甘党の夏目漱石先生も、もちろん金鍔がお好きだったでしょう。小説『坊ちゃん』の中で、主人公のことを「坊ちゃん」と呼んで可愛がる下女・清について書きながら、「(略)折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる」と、さりげなく金鍔のことに触れています。紅花堂が、角型の「きんつば」を売り出したのは、1897(明治30)年のことで、『坊ちゃん』が発表された1906(明治39) 年に、丸か角か、どちらが一般的だったかはかなり微妙なところですが、子どもの頃の思い出であれば、間違いなく丸型だったはずです。 そんな中、日本橋にある榮太郎本舗は、幕末の頃、屋台で金鍔を商っていたそうで、今も当時と変わらず、刀の鍔をかたどった丸い金鍔を作っています。また、他にも、発祥の丸型にこだわっている店があります。 熊本にある、お菓子の香梅です。香梅の金鍔は、以前は「まるきんつば」という名前でしたが、「刀は備前、鍔は肥後」と言われたブランド鍔にあやかり、「肥後鍔」に改名しました。 肥後鍔は、江戸時代から熊本と八代を中心に作られてきた刀の鍔です。鍔は手を防御するための刀装具ですが、肥後鍔は古今の刀装具の中

魚沼産コシヒカリを使った「しんこ餅」 新潟県南魚沼

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「しんこ餅」というと、奈良や京都の「しんこ」、関東の「すあま」など、上新粉で作った菓子の総称になります。上新粉は、うるち米を精白・水洗いし、乾燥させてから粉にしたもので、「しんこ餅」は、もち米で作られる普通の「餅」に比べ、粘りが少なくて歯切れがよく、コシと歯ごたえがあるのが特徴です。 新潟県では、郷土菓子として人気があり、特に日本屈指の米どころ中越地方では、名物となっています。中越の南部、魚沼地方と呼ばれる十日町市や魚沼市、南魚沼市などの「しんこ餅」は、白くて中に餡が入っているのが一般的です。このうち南魚沼市の浦佐には、その名もずばり「しんこ餅」という地方銘菓があります。 浦佐の「しんこ餅」は、もともと、国指定無形民俗文化財である浦佐毘沙門堂「裸押合大祭」が行われる日にだけ作られていました。裸押合大祭は、毎年3月に行われる日本三大奇祭の一つで、約1200年の歴史を持ちます。 807(大同2)年、坂上田村麻呂が、東国平定の際に自身の守り本尊「毘沙門天」を祭った御堂を建立。「国家安穏」「五穀豊穣」「家内安全」を村人と共に祈り、祝宴の中で歌い踊って士気を鼓舞したことが、祭の始まりと言われます。 この祭り、かつては新年の3日に行われていました。しかし、我先に参拝しようと多くの信者が押し合いへし合いし、更に除災招福を願って水行をしてお詣りする人も出て、次第に裸になる者が多くなり、ついには全員裸で御本尊に額づくといった案配で、1月から3月に日程を変え、今の裸押合大祭の形になったということです。 その浦佐にある東家製菓舗は、「しんこ餅」一本勝負の店。上新粉で作る「しんこ餅」は、すぐに固くなりがちですが、粉の配合を変えるなど試行錯誤を繰り返し、ようやく昔ながらの製法をベースにしながら、風味を損なうことなく柔らかさを保つことが出来るようになったといいます。そうして出来た「しんこ餅」は、さらっとした食感で甘さ控えめのこし餡を、ブランド米の魚沼産コシヒカリを使って包み込んでおり、浦佐名物の土産として、大人気となっています。 取材で浦佐に行った際、製造元を訪ねてみましたが、その日は早くに売り切れたらしく、営業時間内だというのに、既に店は閉まっていました。上越新幹線浦佐駅の売店にも置いてありますが、こちらも早めに行かないと売り切れ必至です。私は、たまたま駅前のホテルに泊まったので、あくる日、

栗と砂糖だけを使う美濃生まれの「栗きんとん」 岐阜県中津川

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中津川は、木曽路の入口にあり、町のどこからでも、美濃と信濃にまたがる恵那山が見えます。その中津川の駅前ロータリーに、「栗きんとん発祥の地」と書かれた碑が建っています。 栗きんとんというと、おせち料理の栗きんとんを思い浮かべる人も多いと思います。ゆでたサツマイモを裏ごしして、砂糖や塩などと合わせた粘りけのある餡を栗にまとわせたもので、「金団」と書きます。しかし、中津川など東濃地方の栗きんとんは「金飩」と書き、炊いた栗に砂糖を加え、茶巾で絞って形を整えた和菓子のことなのです。 中津川はかつて、中山道の宿場町として栄えました。東西の文化が入りやすかったため文人も多く、江戸後期には旦那衆の間で俳諧や茶の湯が流行。その必需品が菓子であり、舌の肥えた旦那衆をうならせる菓子作りのため、職人たちは試行錯誤を繰り返し、出来上がったのが栗きんとんだと言われます。 中津川の地域情報サイト「恵那山ネット」で出している「栗きんとんめぐり公式パンフレット」を見ると、市内には栗きんとんの店が14店あります。栗の収穫が始まる9月から冬にかけ、各店手作りで製造します。 いずれも材料は栗と砂糖だけ。しかも作り方もほぼ同じなのに、味は全て違うといいます。栗に砂糖を加えて炊き上げるわけですが、栗そのものが違うのか、砂糖が違うのか、炊き上げる温度や時間が違うのか、その微妙な加減がまた人気となっているようです。 中でも有名なのは、栗きんとんを初めて売り出したと言われる「すや」と、江戸末期の1864(元治元)年創業の「川上屋」です。「すや」の創業は元禄年間で、江戸から下ってきた武士が、「十八屋」の屋号で酢屋を開いたのが始まりだそうです。その後、1902(明治35)年に7代目が駄菓子屋に転向、次の8代目から生菓子を作るようになったといいます。 ただ、中津川から西へ約45kmほどの八百津町にある「緑屋老舗」(1872年創業)も、元祖栗金飩を標榜していて、明治20年代に3代目が商品化したそうです。で、「すや」の娘さんが八百津町に嫁いだことで、栗きんとんが中津川に伝えられたとしています。 決着はまだ見ていませんが、いずれにしろ美濃で生まれたお菓子であることは間違いないようです。

日本の饅頭発祥の店・塩瀬の「志ほせ饅頭」 東京都中央区

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以前、事務所があった築地2丁目から、歩いて10分ほどの所(明石町)に、創業670余年という老舗和菓子屋・塩瀬総本家があります。塩瀬によると、「貞和5(1349)年、宋で修業を終えた龍山徳見禅師の帰国に際し、俗弟子だった一人の中国人が別れがたく随従して来朝しました。その人物が、塩瀬総本家の始祖・林淨因です。林淨因は暮らしの居を奈良に構え、お饅頭を作って売り出しました。これが、塩瀬の歴史の始まりです」とのことです。 龍山徳見は、1305(嘉元3)年から49年まで、長期間、元に滞在していました。徳見が帰国する際には、禅僧を始め船主など元朝の人々が同行し、そのまま日本に留まった一行の中に林淨因がいました。淨因は、徳見が修行をしていた禅堂の饅頭(マントウ)職人を務めており、その経験を生かして、小豆餡入りの饅頭(まんじゅう)を作りました。 本来のマントウは肉などを詰めますが、淨因は、戒律で肉食出来ない日本の禅僧のため、それを回避するものを作ったわけです。これが、菓子としての日本の饅頭の元祖ということになります。 その後、林家の子孫は京都に移り、応仁の乱では戦禍を逃れ三河の塩瀬村(現在の愛知県新城市塩瀬)へ避難。ここで「塩瀬」に改姓しました。乱の後、再び京に戻って饅頭を商うようになると、これが大繁盛。足利義政から「日本第一番饅頭所」の看板を受けました。以後も織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康らに愛好され、江戸開府と共に江戸に移転しました。 お勧めの一品は、江戸時代から名物として有名な「志ほせ饅頭」。伝来の食感にこだわり、国内産のヤマトイモをすり下ろし、上新粉と砂糖を加えて練った皮で、これまた吟味した北海道産の小豆餡を包んでいます。かなり小ぶりですが、しっかりとした食べごたえのある饅頭です。

香ばしい皮に包まれた「空也もなか」 東京都中央区

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まだ築地に事務所があった2014年、久しぶりに訪ねて来られた知人が、手土産に空也の最中を持って来てくださったことがありました。「空也もなか」というと、母が存命中、「予約してあるから昼休みに取ってきて」と、よく言いつかったものです。 空也は、銀座6丁目の並木通り沿いにあり、事務所からは歩いて15分程度。昼休みの散歩には、ちょうどいい案配でしたが、いつも取りに行くだけで、私の口に入ったためしがありませんでした。ただ、予約しないと手に入らないことだけは頭に入りました。 1884(明治17)年に創業した空也の初代古市阿行は、実は江戸城の畳職人だったそうです。それが、大政奉還で職を失い、踊り念仏仲間の一人、榮太樓總本鋪の創業者である細田安兵衛(幼名栄太郎)の力添えもあり、職人を集めて和菓子屋を開いたといいます。そして、踊り念仏の由来である空也上人の名を屋号としました。また、踊り念仏の拍子をとる時に叩くひょうたんから着想を得て、最中をひょうたん型にしました。 「空也もなか」の最大の特徴は、「焦がし種」とよばれる香ばしい皮にあります。これは、初代が懇意にしていた9代目市川團十郎を訪ねた際、團十郎が長火鉢で炙った最中を出してくれ、それが美味だったことから、皮を焦がした最中を作るようになった、と伝えられています。中の餡は、北海道の契約農家から仕入れた小豆に白ざらめを加えて炊き上げ、最後に水飴でつや出しをしています。シンプルですが、すっきりと控えめな甘さに仕上がっています。 ところで、空也というと、よく、夏目漱石が愛したとか、『吾輩は猫である』に登場するとか紹介されます。前の記事( 銘菓郷愁 - 漱石にも勧めたい『坊っちゃん団子』 愛媛県松山 )にも書きましたが、漱石は甘いものが大好きだったそうです。 で、漱石が、自宅の菓子鉢に常備していたのが、空也餅だったらしく、『吾輩は猫である』に登場する空也餅のくだりは、実話だったようです。そのうちの1カ所は、門人である水島寒月の縁談で、相手の母親が訪ねて来た時の話でした。 「『御話は違いますが ― この御正月に椎茸を食べて前歯を二枚折ったそうじゃ御座いませんか』『ええその欠けた所に空也餅がくっ付いていましてね』と迷亭はこの質問こそわが縄張内だと急に浮かれ出す。」 実はこれ、夏目漱石の門人・寺田寅彦のエピソードだそうで、寺田自身がエッセーの中で、