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剛直な尚武の気風を今に残す日向の木刀づくり

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都城は宮崎県南西部、市域の西側と南側は、鹿児島県に接しています。全国有数の木材産地で、木工家具の他、全国生産の90%を占める木刀の産地でもあります。木刀の原材は6割がカシですが、その約80%が南九州に集中するという地理的条件が、その大きな要因となっています。 また、都城には、戦国の世以来の尚武の気風もあります。島津勢力の最前線として、日向の伊東氏や豊後の大友氏と死闘を繰り返してきた都城では、昔から武道が盛んでした。近代に入ってからも、軍都の趣を呈すなど、武張ったイメージの強い九州の中でも、その傾向はとりわけ強い地域です。こうした尚武の土地柄も、都城を全国一の武道具の産地としたことと無縁ではないでしょう。 都城木刀の歴史は、藩政時代、島津氏の支領となって以来のことで、薩摩示現流の大刀が見本として伝承され、明治末には新陰流の大刀を加味して、反りのある美しい型が出来上がりました。産業として確立したのは、大正の中頃になってから。その後、昭和に入って満洲鉄道開設のためのハンマーやつるはしの柄、軍事教練用の武具づくりで、非常な活況を見せました。 しかし、終戦後は武器につながるとして、木刀の製造は禁止されました。禁止が解け、再び製造が始まったのは1952(昭和27)年。この後は、国体に武道が採り入れられるようになって、武道熱も高まり、スポーツ店では武道具木工品が、ベストセラーとなりました。量産時代の幕開けです。が、需要に供給が追いつかず、店を畳む人が出始め、逆に製作者は徐々に減ってきました。 なにしろ一口に木刀と言っても、流派別に型はみな違います。しかも同じ流派でも、一本一本違った要望を出してくる場合があります。なかなか対応しきれるものではありません。 取材させて頂いた当時、宮崎県伝統工芸士である堀之内登さんの所では、木刀だけで約400種に及んでいました。製作者が減った分、しわ寄せがきて、伝統的な都城木刀だけをつくっているわけにはいかないとのことでした。その他、薙刀や木銃、鎖鎌、杖、棒、ヌンチャクなど、武道用具の全てを製造しています。しかも薙刀や空手用品も、流派別です。その当時で、アメリカを始め海外12カ国へも出していました。 また、都城は木刀の他、竹製の大弓づくりの産地でもあり、こちらは全国の95%を占め、弓師も17人を数えていました。木刀にしろ弓にしろ、その製作は手仕事の部分

裏筑波に伝わる手仕事、竹矢作り

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石岡市八郷町は、茨城県のほぼ中央。四方を筑波山塊に囲まれた、この静かな町で、代々日本古来の武具、矢の製造を営んでいるお宅があります。県指定の伝統工芸品「八郷竹矢」の小池家と助川家です。 八郷で竹矢作りが始まったのは、明治になってから。笠間藩士であった小池さんの祖先が、明治維新後、八郷町に移り住んで始めたのが最初です。 取材させて頂いた小池貢さんは、八郷竹矢「義政」4代目で、小池さんの5代前は、笠間藩の江戸家老でした。当時、徳川家の矢作(矢作り職人)であった大森という人物が、3年ほど小池家へ居候をしていました。その3年の間に、小池家では大森から矢の製法を学んたようです。 明治になって、禄を離れた小池孫太夫義高は、八郷に居を構え、その子義行の時から、矢作りを始めました。もっとも、いきなり正業とするには心許なかったでしょうし、最初は田畑の耕作の傍らの副業ではなかったか、と想像されます。そしてその後、現在に至るまで、昔と変わらぬ手仕事で、矢を作り続けているのです。 「非常に大変なんですよ、これは。矢というのは、手を抜くところがないんです」と、小池さんは話していました。 矢を仕上げるまでの工程は、全て手仕事。一本一本、昔ながらの製法で作り上げていきます。漆器やダルマの木地作りが機械化され、手織りが機械織りに、炭の窯が電気やガス窯に、と変わる中で、矢はそうした機械の恩恵に浴することのない、今では数少ない工芸品の一つになっています。その工程をざっと説明すると・・・。 まず「荒揃え」といって、竹を重さと長さにより分類します。矢というのは、通常4本1組であるためです。次に「荒矯め」にかかります。竹の根の方から、炭を組んだ釜を数回通し、繊維が軟らかくなった時、竹が真っ直ぐになるまで、矯木でこきおろします。「節たたき」といって節を削り、竹の芽の残りを取ります。更に丸み、目方、太さなどを考えながら削っていきます。 矢は、仕上がりが7匁(1匁は3.75g)と決まっています。採取して乾燥したままの竹は、普通11〜12匁。それを削って7匁にするというのは、相当な熟練が必要です。指先と勘に頼った作業となります。それが終わると、2本ずつ溝のついた石2個で挟み、水と細かい砂とをつけて磨きます(「石洗い」)。水分が取れたところで、「節抜き」をして、「火入れ」を行います。焼き過ぎないよう、水をふくませた布

神話の時代から今に続く出雲の玉作り

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古来、この地には、三種の神器の一つ勾玉を作る玉造部が住んでいました。松江市玉湯町にある日本最古の温泉・玉造の名は、ここからきています。玉造温泉の上手にある玉作湯神社の祭神・櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)は、玉造部の祖とされています。神話によると、須佐之男命が天照大神に献上した勾玉は、櫛明玉命が須佐之男命に贈ったものといいます。 玉は古代人の装飾品で、勾玉・管玉など多種多様な玉があります。ひすいやめのうなどを材料として作られましたが、それが信仰の対象となるほど、神秘的な美しさを秘めていました。 特に出雲の碧玉は硬質で火に強く、赤や白のめのうとは区別して、青めのうと呼ばれます。中でも玉造石が最も有名で、宍道湖の南にある花仙山から産出されます。 玉作りの中心地は、その花仙山の麓にあり、遺跡も20カ所を超えます。弥生時代の終わり頃から作り始め、古墳時代が最盛期だったようです。玉を飾る風習がすたれた奈良・平安時代にも、出雲だけは玉の生産が行われていました。 出雲の玉造部が作った碧玉製の勾玉を、出雲国造が朝廷に献上していたことが、当時の『出雲国風土記』(733年)や『延喜式』(927年)に記録されています。平安時代には、玉造の名は温泉と共に日本中に知れ渡り、都では貴族の間で評判になっていた、と清少納言が『枕草子』に記しています。 そんな出雲の玉作りも、鎌倉・室町時代に一時廃絶しました。しかし、江戸末期に若狭の技術を導入して復活。印材、かんざし、こうがい、帯留め、根付などが作られました。 明治末には「出雲玉造瑪瑙(めのう)業組合」が組織され、最盛期の大正から昭和初めにかけては、加工業者も14軒を数えました。が、これも戦争で打撃を受け、現在では1軒を残すのみとなっています。

赤い夕日に染まる童顔の野仏は、下野生まれの石の民芸

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野木町は、栃木県最南端。町域の大部分は、平地林の残る平らな台地ですが、西側は渡良瀬遊水地の一部をなす低湿地帯となっており、一面をヨシが生い茂っています。そして町の西境を、思川(おもいがわ)というロマンチックな名の川が、渡良瀬遊水地に向かって流れています。 町のほぼ中央を走る東北本線と思川との間には、日光街道が通っています。その街道筋に、「仏生庵工房」という石屋がありました。その名の通り、石仏や道祖神などを彫っている工房でした。 石仏は。ギリシャ彫刻の影響を受けた、インド・ガンダーラ地方の釈迦像が始まりと言われます。池田三四郎著『石の民芸』によると、道祖神は開拓のために初めて作られた道を守る神。またはその道から入ってくるかもしれない災厄を防ぐ神。そして子どもを授け、労働力に育てて豊穣を約束してくれる神が、夫婦和合や縁結びの神として、道祖神の形に集約されていったといいます。 仏生庵工房の大久保昌英さんが作っていた道祖神は、福々しい顔をしていました。「道祖神はだいたい男女双体ですから、深刻な顔つきにすると、妙になまめかしくなる。それで努めて童顔にするよう心がけているんです」と、大久保さんは話していました。 大久保さんは、道祖神や石仏に、主として福島県・須賀川産の江持石(安山岩)を使っていました。ただ、きめの細かさでは、江戸城の石垣にも使われた伊豆の青石(凝灰岩)が最適だそうで、細かい細工物の時には、これを使うと言っていました。 道祖神や石仏も、最近は信仰や宗教のためというより、インテリアとしての需要が多くなっています。庭の片隅や、応接間に置くために買い求める人がほとんどだといいます。しかし、考えようによっては、それこそが民間信仰や宗教の本来の姿なのかもしれません。 記事を書くに当たって確認したところ、大久保さんは石工を続けてはいるようですが、仏生庵工房という名ではないので、石仏や道祖神は彫っていないのかもしれません。が、栃木県が運用する「とちぎの伝統工芸品」というウェブサイトに「野木の石仏」が出ており、そこには大久保安久さんという方の名前が出ていました。同じ大久保なので、何らかの関係がある方かもしれません。

町おこしの中から生まれた竹の里の新しい工芸

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以前、全国商工会連合会の主催で「ニッポン全国むらおこし展」という企画展が毎年開かれていました。全国の商工会地区で、むらおこし事業から開発された特産品を展示し、情報交換やPRをするのが目的で、その一環として「むらおこし特産品コンテスト」も実施され、こちらは現在も続いています。 コンテストは、食品と非食品の2部門に分かれ、全国約1000の商工会から最盛期には約5000品目が出品され、競い合っていました(最近は100品目を切っているようです)。1992(平成4)年、そのコンテストで芝川町(現・富士宮市芝川町)の竹細工が非食品部門の最高賞を獲得しました。受賞したのは、「ゆらりとんぼと沢のかに」。トンボはやじろべえのようにバランスをとって、その名の通りゆらりゆらりと揺れるのが特徴です。 この竹細工、商工会と町が中心となった活性化事業の中で生み出されました。芝川の特産品の一つにタケノコがあります。町内のあちこちに竹林が点在し、美しい景観を見せています。「この竹を利用して町おこしが出来ないか」。アイデアは、そこから出発しました。 竹細工製作者グループの中心・佐野昭一さんは、もともとはダンプの運転手をしていました。肝臓をこわし、医師の勧めで半日勤務に切り替えました。出来た時間で始めたのが、竹細工の趣昧。これが、ちょうど竹を使った町おこしを模索していた町に認められ、この事業がスタートしました。1991(平成3)年度には半年間の竹細工教室を開き、規格品製作技術を持つ町民18人を認定。販売は商工会が担当することになり、県と町の補助を受けて販路開拓を進めることになりました。 「タケノコを作っている人たちも高齢化して、冬に切った竹を処分するのに困っていたんです。だから、竹をもらいたいと言うと、あちらも大喜び。こちらも材料費はかからないということで、一石二鳥の効果があるんです」と、佐野さん。 一つひとつが手作りだけに、量産は出来ませんが、取材当時は、佐野さんや渡辺義男さん、佐藤雅美さんらを中心に、二十数人の認定町民が規格品である「ゆらりとんぼと沢のかに」を月平均100セット製作していました。この他、それぞれの工夫で、昆虫を題材とした作品なども登場。伝統がないぶん、逆に制約を受けずに自由な作品を生み出すことが出来るようでした。 旧芝川町は、静岡、山梨両県境にあり、日本三大急流の一つ富士川沿いに開

数百年の時を経て独特の色艶を見せる煤竹細工

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倉吉市は鳥取県のほぼ中央、東、西、南の三方を山に囲まれた平野にあります。小鴨川、竹田川、国府川がそれぞれ支流を集めて合流し、倉吉で天神川となって日本海に注ぎます。縄文、弥生時代の遺跡が多く見られるように、古くから開けた土地で、市街の西方には伯者国府や国分寺、国分尼寺跡などがあり、倉吉が古代伯者の文化、政治の中心であったことを物語っています。 近世には山陰道、津山街道、勝山街道が交差する宿場町として、京文化や吉備文化が往来し、また鳥取藩の城下町として栄えました。江戸中期には「倉吉せんば」の産地として一大繁栄期を迎え、当時造られた白壁の土蔵群が、その頃の面影を伝えています。倉吉絣や二十世紀梨の産地としても知られ、民芸の町と言われるように、優れた郷土玩具や民芸品もあります。 その一つに、倉吉独特の煤竹細工があります。煤竹というのは、茅葺屋根の屋根組みに使われ、囲炉裏や竈から立ち上る煙が染み込んだ竹のこと。長い年月、煙にいぶされた竹は、付着していた煤を取り除いてみると、独特の飴色になっています。200年、300年を経たものなど、実に見事な色合いで、煤竹細工はそれを使って作られます。 煤竹細工が倉吉で始まったのは、そう古いことではありません。倉吉出身の中野竹蔵氏が神戸に出て、大正元年に竹製のペン軸を作り、ドイツへ輸出したことに端を発します。倉吉の南方、岡山県境一帯にかけて自生する、俗に鳳尾竹と呼ばれる根曲竹を使ったものでした。その後、二度の大戦に巻き込まれ、事業は二転三転しました。しかし、その間も一貫して竹製品を作り続け、1939(昭和14)年には故郷倉吉に戻り、更に終戦後、現在のような煤竹を用いた竹窓の製造を始めました。 特に高度成長期に入ると、農家が家を次々と建て替えるようになり、煤竹がたくさん出ました。鳥取県内はもとより、兵庫、京都、北陸3県などにも足を伸ばし、煤竹を集めて歩きました。それと共に、煤竹細工もさまざまなものが作られるようになってきました。 1965(昭和40)年には天皇、皇后両陛下上覧のため、煤竹製の衝立を作り、70年には大阪万博に出品。このあたりから、工芸的な製品作りが増えてきました。現在は茶道や花道関係のものが多く、また、飾り窓の窓枠も種々あります。 ただ、家の建て替えが一通り終わると、昔ながらの茅葺きの家はだんだんと少なくなり、材料の入手が困難になっ

多種多様な紙を漉き分ける土佐和紙の伝統技法

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いの町は、四国最高峰の石鎚山を源に、太平洋へ注ぐ仁淀川の下流域にあります。この辺りは紙の原料が豊富で、豊かで美しい水に恵まれた伊野は、古くから紙の町として知られてきました。 どれくらい古いかと言うと、平安時代には既に朝廷に土佐和紙を献上しているほど。その後、930年には、『土佐日記』で知られる紀貫之が土佐国司となり、製紙業を奨励しました。 更に桃山時代になると、四国を統一した長宗我部元親の妹養甫尼と、その甥安芸三郎左衛門家友が、土佐七色紙を考案しました。長宗我部氏滅亡後、1601年に入国した山内一豊は、これを土佐藩の御用紙に指定。藩の積極的な振興策を受けた土佐和紙は、製造技術にますます磨きがかかり、幕府の献上品になると共に、藩の特産として全国各地に流通、地場産業として定着し、発展していくこととなります。 こうした長い歴史に培われただけに、原料のコウゾ、ミツマタなどの特性も知り尽くしています。更には、それらを使いこなすことによって、多種多様な製品を生み出してきました。手漉きで出来る和紙のうち、製品化していないものは無い、と言っても過言ではないほどです。それは、とりもなおさず、さまざまに漉き分ける高度な技法が確立しているからにほかなりません。 例えば土佐和紙の場合、典具帖紙(てんぐじょうし)に見られるような極薄紙の紙漉き技術が伝わっています。これはまさに、熟達した職人技によってのみ可能な難しい技法。むらのない均質な和紙を大量に漉くのは至難の業ですし、修練を積んだ精神力も必要とされます。 最近では、1973年に典具帖紙、77年に清帳紙が国の無形文化財に、また76年には土佐和紙の名称で国の伝統的工芸品に指定されています。 いの町は県中央部、高知市の西に隣接し、日本一の清流と言われる仁淀川がとうとうと流れています。

高野山から伝わり、大都市江戸に育てられた細川紙

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秩父山地と関東平野が出合う県中西部の村・東秩父。この村は、近隣の小川町、都幾川村などと共に、古くから手漉き和紙の産地として知られてきました。 記録によると、都幾川村の古刹・慈光寺が建立された後、写経の必要から紙づくりが始まったとされます。慈光寺は、奈良時代の創建とされますから、1200年以上も昔のことです。また、いつの頃かは定かでありませんが、高野山の紙を漉いた紀州細川の紙漉き技術を導入したとも伝えられます。そのためこの辺りの和紙は、今でも「細川紙」と呼ばれます。 特に江戸時代、職人たちが開発した細川紙は、漂白しない未晒しのコウゾ100%を使った強じんな和紙でした。水に浸して丸めて搾っても、ピンと延ばせば元に戻りました。そんな質の良さから、商家の大福帳に使われ、火事の際、井戸に投げ込み、後で引き上げても再び使えたといいます。更に大都市・江戸に近かったこともあり、細川紙は非常な繁栄をみました。 しかし、時代と共に和紙を取り巻く環境も様変わりしました。大きな変化は昭和30年代の機械化でした。東秩父や小川の業者も、多くの家が機械和紙に転向しました。機械化による大量生産は原料不足を招き、原木は3倍に高騰しました。 それに追い討ちをかけるように、紙の需要が変わってしまいました。洋紙に押され、和紙を漉いていた家は、どんどん廃業に追い込まれていったのです。 現在、細川紙を漉いている家は数軒のみとなってしまいました。そんな中、東秩父にある「和紙の里」は紙漉きの伝統を将来に伝える施設として作られました。ここでは秩父の山々を借景とした日本庭園の中、細川紙を始めとした和紙の生産と販売を行っています。また、和紙の製作工程が見学出来る他、手作り体験も出来るようになっています。 地元の幼稚園児や小学生も手漉き体験に訪れるなど、今、東秩父では、村をあげて紙漉きの技と心を受け継いでいこうとしています。

酒を呑んだり三味線を弾いたり、ユニークなからくり人形

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幕末、神戸港は諸外国に向けて門戸を開きました。年号が改まり、明治に入ると、外国船が続々と錨を下ろし、さまざまな異人さんが神戸の街に上陸し、紅毛碧眼の船乗りや黒い肌の水兵たちが、街を闊歩しました。初めて見る外国人に、神戸の人たちはさぞかしびっくりしたことでしょう。 そんな素朴な驚きが、神戸人形として形になり、今に伝わっています。神戸人形は伝統的な日本人形とは趣を異にします。一説には、初めて見た黒人船員の強烈な印象が、淡路の人形浄瑠璃と結び付き、特異なからくり人形が生まれたのだとされます。 ただ、創始者とされる野口百鬼堂が作った人形は、ツゲの木肌をそのまま生かしたものでした。それが、黒い人形になったのは、出崎房松が登場してからだそうです。この人は、黒人船員を見ると駆け寄って握手を求めたり、自分も顔を黒く塗って町を歩いたりといったエピソードが語られていて、そうした憧れの黒人を日本の庶民に当てはめたのでしょうか。 神戸人形の誕生は明治末期といわれ、大正から昭和初期には神戸港周辺や布引の滝の茶店で、外国人目当ての観光土産として売られました。大正天皇が、皇太子時代に布引の滝に来られた際、献上したこともありますが、もっぱら外国人が愛賞し買い求めました。 ただ、創始者については、野口百鬼堂説の他に、八尾某説、長田神社の参道で売っていた「長田の春さん」説などがあります。草創期で、はっきりと名前が分かっているのが、野口百鬼堂と出崎房松ぐらいというだけで、古い人形の中には、野口とも出崎とも異なる作風のものもあり、まだまだ無名の作者がいっぱいいたに違いないと言われています。 神戸人形は、からくり人形で、これまでに百数十種類が確認されています。つまみを回すと糸の繰りで前後、左右に動き、酒を呑んだり、三味線を弾いたりユーモラスな動きを見せます。そうしたユニークな仕種や表情が受けたのか、大正時代にはヨーロッパにも輸出されていました。今も時々、ヨーロッパの「蚤の市」に古い神戸人形が出ることがあるそうですが、その頃に輸出されたものかもしれません。 ところで神戸人形は、こうした生い立ちのためか、日本人にはほとんど知られていません。更にこれまで何回か廃絶の憂き目にあっています。取材した時も、作者がおらず、神戸人形を扱っている神戸センターでも、100個ほどの在庫があるのみだと聞きました。 その後2015年

越後に伝わるだるまの原型「三角だるま」

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阿賀野市の水原町は、白鳥の渡来地として世界的に知られる瓢湖のある所。そして、瓢湖と並んで水原の名物となっているのが、三角だるまの名で親しまれる起き上がり小法師。 この三角だるま、昔は県内各地で製作されていましたが、他の人形に押されて廃絶し、現在まで続いているのは水原だけ。「鳩屋」の屋号を持つ今井家が、その製作を継承しています。 鳩屋は約200年続く玩具製作の家。3代目までは、農業のかたわらぽつぽつと、木や竹や紙の玩具を作っていたようです。そして4代目から本格的になり、山口土人形といわれる数十種類の土人形や、三角だるまを作り始めたといいます。 ただ、三角だるまという名前は、最初からのものではありません。地元のお年寄りたちの話では、「子どもの頃、よく転がして遊んだけど、単に起き上がり小法師と呼んでいた」というのですから、比較的最近になってからの命名のようです。 養蚕家は、蚕がよく起き上がるように、漁師の家では難破しても早く浮き上がるようにと、願掛けがされ、また水原にある徳鳳寺では、年始に夫婦一対を紙袋に入れて檀家に配ったりしたといいます。こうして、一般のだるまと同じように縁起物として使われることもあったようですが、縁起物のだるまにしては、かわいらしさが先に立ち、ちょっと物足りない感じもします。 だるまというのは、足利時代に、中国の不倒翁という玩具が京都に入って、起き上がり小法師と名を変えたのが始まりとされています。それが江戸中期に、江戸の市民によってだるまに変身させられ、その後、縁起物として全国津々浦々にまで広まったといいます。ですから、水原の三角だるまは、本来の玩具性を残したまま現在に伝わる、いわばだるまの原型とも言えるでしょうか。 三角になった由来は、「越後の子どもたちが、冬に被っていた蓑帽子の形を模したもの」(鳩屋・談)といいます。しかし、起き上がり小法師として最適とも思える形を考えると、製作の容易さも含め、単に製作上都合がよかったから、といったところが、案外、本当かもしれません。 何しろ作りは、紙をラッパ状にして和紙を貼り、土製のおもりを底辺につけただけの単純なもの。ただ、それに彩色が施され、顔が描き加えられると、がぜん民芸としての趣を醸し出すから不思議です。 2点の目とへの字の口。てんで好き勝手なところにある下がり眉にどじょうひげ。八方破れでユーモラスな面相で