多種多様な紙を漉き分ける土佐和紙の伝統技法
いの町は、四国最高峰の石鎚山を源に、太平洋へ注ぐ仁淀川の下流域にあります。この辺りは紙の原料が豊富で、豊かで美しい水に恵まれた伊野は、古くから紙の町として知られてきました。
どれくらい古いかと言うと、平安時代には既に朝廷に土佐和紙を献上しているほど。その後、930年には、『土佐日記』で知られる紀貫之が土佐国司となり、製紙業を奨励しました。
更に桃山時代になると、四国を統一した長宗我部元親の妹養甫尼と、その甥安芸三郎左衛門家友が、土佐七色紙を考案しました。長宗我部氏滅亡後、1601年に入国した山内一豊は、これを土佐藩の御用紙に指定。藩の積極的な振興策を受けた土佐和紙は、製造技術にますます磨きがかかり、幕府の献上品になると共に、藩の特産として全国各地に流通、地場産業として定着し、発展していくこととなります。
こうした長い歴史に培われただけに、原料のコウゾ、ミツマタなどの特性も知り尽くしています。更には、それらを使いこなすことによって、多種多様な製品を生み出してきました。手漉きで出来る和紙のうち、製品化していないものは無い、と言っても過言ではないほどです。それは、とりもなおさず、さまざまに漉き分ける高度な技法が確立しているからにほかなりません。
例えば土佐和紙の場合、典具帖紙(てんぐじょうし)に見られるような極薄紙の紙漉き技術が伝わっています。これはまさに、熟達した職人技によってのみ可能な難しい技法。むらのない均質な和紙を大量に漉くのは至難の業ですし、修練を積んだ精神力も必要とされます。最近では、1973年に典具帖紙、77年に清帳紙が国の無形文化財に、また76年には土佐和紙の名称で国の伝統的工芸品に指定されています。
いの町は県中央部、高知市の西に隣接し、日本一の清流と言われる仁淀川がとうとうと流れています。
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