裏筑波に伝わる手仕事、竹矢作り

石岡市八郷町は、茨城県のほぼ中央。四方を筑波山塊に囲まれた、この静かな町で、代々日本古来の武具、矢の製造を営んでいるお宅があります。県指定の伝統工芸品「八郷竹矢」の小池家と助川家です。

八郷で竹矢作りが始まったのは、明治になってから。笠間藩士であった小池さんの祖先が、明治維新後、八郷町に移り住んで始めたのが最初です。

取材させて頂いた小池貢さんは、八郷竹矢「義政」4代目で、小池さんの5代前は、笠間藩の江戸家老でした。当時、徳川家の矢作(矢作り職人)であった大森という人物が、3年ほど小池家へ居候をしていました。その3年の間に、小池家では大森から矢の製法を学んたようです。

明治になって、禄を離れた小池孫太夫義高は、八郷に居を構え、その子義行の時から、矢作りを始めました。もっとも、いきなり正業とするには心許なかったでしょうし、最初は田畑の耕作の傍らの副業ではなかったか、と想像されます。そしてその後、現在に至るまで、昔と変わらぬ手仕事で、矢を作り続けているのです。

「非常に大変なんですよ、これは。矢というのは、手を抜くところがないんです」と、小池さんは話していました。

矢を仕上げるまでの工程は、全て手仕事。一本一本、昔ながらの製法で作り上げていきます。漆器やダルマの木地作りが機械化され、手織りが機械織りに、炭の窯が電気やガス窯に、と変わる中で、矢はそうした機械の恩恵に浴することのない、今では数少ない工芸品の一つになっています。その工程をざっと説明すると・・・。

まず「荒揃え」といって、竹を重さと長さにより分類します。矢というのは、通常4本1組であるためです。次に「荒矯め」にかかります。竹の根の方から、炭を組んだ釜を数回通し、繊維が軟らかくなった時、竹が真っ直ぐになるまで、矯木でこきおろします。「節たたき」といって節を削り、竹の芽の残りを取ります。更に丸み、目方、太さなどを考えながら削っていきます。

矢は、仕上がりが7匁(1匁は3.75g)と決まっています。採取して乾燥したままの竹は、普通11〜12匁。それを削って7匁にするというのは、相当な熟練が必要です。指先と勘に頼った作業となります。それが終わると、2本ずつ溝のついた石2個で挟み、水と細かい砂とをつけて磨きます(「石洗い」)。水分が取れたところで、「節抜き」をして、「火入れ」を行います。焼き過ぎないよう、水をふくませた布でふいたり、焼き不足の所は釜の上部の孔にかざして部分的に焼き、焼き色が一定になるよう仕上げます。最も手間のかかる工程です。その後、表面を円滑にするため、割り竹2枚の間に2本の矢を挟んで、石洗いと同様に磨きます(「竹磨き」)。更に、木賊に水をつけて滑らかにし、最後に木賊だけで入念に磨き上げます。

これが、矢作りの大ざっぱな工程ですが、先にも触れたように、4本1組にするため、仕上がりを均一化しなくてはいけません。それは、恐るべき目分量の世界です。

「今、矢もジュラルミン製のパイプが使われてるんです。大量生産出来るから安いし、練習用はジュラルミンが多いでしょう。それでだんだん竹矢作りも減って、今、茨城では八郷だけです。全国的にも数えるほどで、確かに注文はたくさんくるんでうれしいんですが、なんせ手仕事だから、作れる量に限りがあって、受注を増やすわけにはいきません。うちは幸い、長男が継いでくれてますが、孫の代になったら分からないねえ・・・」

小池さんは、そう言っていましたが、現在、孫の豪さんも6代目として矢作りをしているようで、長男・和義さん(5代目義政)と、親戚の助川弘喜さん(5代目義行)の3人が、八郷竹矢の伝統を守っています。

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