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奈良・平安時代の古道、日本坂峠道の美しい隠れ里

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静岡県のほぼ中央、洋々たる駿河湾を望む焼津市は南北に10km余りの海岸線が続く風光明媚な街で、焼津港はカツオ、マグロを主とする日本有数の遠洋漁業の根拠地となっています。当然、焼津には海の町のイメージがあります。 市のキャッチフレーズは、「日本一の国際水産観光都市」。自慢の風景は、大崩海岸に和田浜海岸。自慢の音は、出船の音と魚市場の競り声。郷土料理も、マグロのかぶと焼きにカツオめしときています。焼津港は、カツオの水揚げ日本一、全国屈指の漁獲量を誇ります。 そんな海の町・焼津に、静かな山間の隠れ里があります。中心部から北へ約3km、高草山のふもとにある花沢の里です。 焼津の地名は、日本武尊の草薙の剣の神話によって「やきつ」と名付けたと記紀に記されています。その日本武尊の伝説にちなむ日本坂の峠道は、奈良時代から平安時代中頃までの東海道の古道で、花沢集落はその道沿いにあります。 花沢は、茶とみかんを主体とした農村集落ですが、独特の美しい家並を持っています。その特徴は重厚で格調高い長屋門造りにあります。 長屋門とは、門と長屋を組み合わせた建築で、建物の中央に通路を設け、両開きの扉をつけて門とし、左右の部分は門番小屋や物置、倉庫などに利用しました。もともとは江戸時代の武家屋敷で用いられましたが、江戸末期には名主などの上級農民も用い、明治維新後は、一般農家にも普及しました。 花沢は明治後期、輸出用のみかん産地として大いに栄えました。そして、みかん収穫に雇った人々を宿泊させるため、長屋門が造られ、独特の美しい家並が形成されました。現在、花沢にはそうした旧家が、かつての日本坂峠道に沿って約500mにわたり続いています。脇には花沢川のせせらぎが流れ、静かな山家のたたずまいを一層引き立てます。 活気あふれる海の町・焼津にあって、花沢の里は素朴な山里の香りに包まれ、昔町にタイムスリップしたような懐かしさを感じさせてくれます。『万葉集」にもうたわれたこの古道は、今は「やきつべの小径」と呼ばれ、市民の憩いの場所となっています。 ちなみに焼津は、小泉八雲が愛した町であり、八雲は焼津の海と焼津っ子の気っ風が気に入り、夏は毎年焼津に滞在しました。そして、焼津の人を「子どものように淡泊で親切であり、正直すぎるほど正直」と評していたそうです。焼津に大学時代の友人がいますが、確かに、淡泊で親切だし、正直な

高梁川の舟運で栄えた中国山地の城下町

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高梁川は岡山・鳥取県境の中国山地に源を発し、新見、高梁、総社の3市を経て倉敷市で瀬戸内海に注ぎます。高梁はその中流部、明治維新まで約630年にわたり、城下町として栄え、また高梁川の舟運により山陽と山陰を結ぶ物資の集散地として賑わいました。 高梁川の北岸にそそり立っている臥牛山の山頂近く、標高約430mの辺りに、国の重要文化財・備中松山城があります。現存する山城としては、日本一高い場所に位置しています。臥牛山は、中国山地の端にあたり、古くから大松山と呼ばれていました。 1240(仁治元)年、ここに相模の豪族秋庭氏が砦を築きました。その後、戦国時代には毛利、尼子、織田など乱世の代表的な武将たちが、中国制圧の拠点として居を構えました。現在の城郭は江戸中期、1681(天和元)年に水谷氏によって築かれました。 水谷家は嗣子がなく断絶しましたが、その時、大石内蔵助が、浅野内匠頭の代理として城を受け取りに来ています。それからわずか数年後、かの赤穂事件により内匠頭は切腹、内蔵助は赤穂城の明け渡しに立ち会うことになります。内蔵助の供をして松山城に来た者の中には四十七士に名を連ねた神崎与五郎、武村唯七らがいたといいます。 臥牛山の南麓、現在高梁高校となってる場所を御根小屋といいました。松山城は山城であるため、藩主は山麓に居を構え、そこで政治を執りました。城下町はこの御根小屋を中心に形成され、市街地東部の秋葉山・愛宕山のふもとに、階段状に武家屋敷が、その下の高梁川沿いに町家が造られました。 今も往時の姿は、格子戸の残る商家や武家屋敷など、その家並の中にしのぶことが出来ます。高梁川にかかる方谷橋を渡って、小高い方谷林公園から対岸を見渡すと、商家のたたずまいがはっきりと分かります。また、高梁川に流れ込む紺屋川筋の町家や、町並み保存の風致地区になっている石火矢町の典型的な屋敷町のたたずまいなど、郷愁を呼ぶ家並があちこちに点在します。 また、高梁市成羽町は、備中神楽発祥の地とされています。文化文政の頃、神官で国学者でもあった成羽出身の西林国橋が、『古事記』『日本書紀』の神話をもとに「天の岩戸開き」「大国主命の国ゆずり」「素蓋鳴命の大蛇退治」という演劇的要素の高い神代神楽を創作しました。これが備中地方の秋祭りに欠くことの出来ない民俗芸能として育てられ、現在では、国の重要無形文化財に指定されています

「岩国藩のお納戸」と呼ばれ繁栄した白壁の町並み

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瀬戸内海国立公園の西端にある柳井市。向かいの大島との間、柳井水道の交通の要衝として古くから開け、藩政時代、市の中心・柳井津は、「岩国藩のお納戸」と呼ばれるほどの経済的勢力を持ち、商都として賑わいました。 柳井水道は狭い海峡です。しかし、瀬戸内海には実に多くの島々が散在しているため、いきおい舟はこの水道に集中しました。この辺りはかつて、内海航路を上り下りする舟が、最も激しく往来した所です。 柳井はその海上輸送の拠点として発展しました。柳井商人はここを基地に、大坂や九州へと商圏を拡大し、町は大きく繁栄しました。明治に入り、鉄道が通っても、山陽本線の急行停車駅となり、柳井は山口県東部の中核都市として、重要な役割を果たしてきました。 その山陽本線柳井駅から北へ5分ほど歩くと、柳井川へ出ます。柳井川までの道筋は、かつては海でした。町の発展につれて町域を拡大する必要から、1662(寛文2)年に埋め立てられ、一部が川として残されました。柳井川を左手に折れて二つ目の橋・宝来橋は、その旧地と新地を結ぶため、延宝年間(1673-81)に架けられました。橋の周辺には舟着場の跡が残り、かつて荷を積んだ舟が盛んに往来していた頃をしのばせます。 宝来橋を渡って小路を真っ直ぐ進むと、左右に通じる道に出ます。この辺りから右に約200mの問は「白壁の町」と呼ばれ、道を挟んで両側に古い商家が軒を連ねています。江戸時代には産物を満載した大八車が往来し賑わいました。 江戸中期の町屋の典型として、国の重要文化財に指定されている国森家を始め、2階建の妻入りで入母屋、本瓦葺きの家が多く残っています。間口がほとんど一定しており、よく似た家ばかりが並んでいます。他所にもこうした町並みはありますが、柳井ほど徹底している所は珍しいでしょう。 ここの通りは1982(昭和57)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。その町割は、室町時代のままと言われ、町としての柳井の歴史の深さを物語っています。

金融資本の砦となった「いぐら屋」の家並

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福岡市から東南へ車で約1時間、緑のじゅうたんを敷き詰めたような田園風景が広がります。うきは市吉井町は、福岡県東南部、南に耳納連山がそびえ、北に九州一の大河筑後川がゆったりと流れています。この山と川の間を、国道210号が東西に走り、これに沿うようにして吉井の町並みが展開しています。 国道沿いの上町・中町・下町・天神町には、白壁土蔵造りの重厚な建物が軒を連ね、車で通る人の目を奪います。かつて吉井は、天領日田(大分県日田市)と、藩の中心久留米を結ぶ豊後街道の宿場町でした。しかし、宿場としてよりも、吉井は木蝋、酒、醤油などの産業と、筑後川を利用した物資の集積地として栄えました。 江戸初期、久留米藩の灌概工事により、筑後川から大石・長野水道が引かれました。これにより水田が広がり、吉井の米作は飛躍的に伸びました。筑後川の豊かな水と米は、酒造業を大きく育て、以前から行われていた櫨蝋造りと、その後に興った製粉、製麺業を合わせ、吉井は「吉井銀」と呼ばれる金融資本の集積を見るに至りました。 そして、これら富の蓄積を基盤とした家造りが、今日残る町並みの原形となったのです。その後、江戸後期から明治にかけ、三度の火災に見舞われた吉井の建物は更に堅牢化し、蔵造りに近い重厚な造りの町家が造られました。これらの造りを、この辺りでは「いぐら屋」と呼びます。「い」は「居」、「ぐら」は「蔵」、「屋」は「家」の意味です。 今も吉井町には、江戸から明治にかけて建てられた家が数多く残り、この町に落ち着いたたたずまいを与えています。これらの家並は国道沿いの他、上町でT字型に交差する通称「白壁通り」や、大石・長野の二本の疏水に沿っても展開しています。 毎年春には、これらの家々の玄関にひな人形が飾られ、観光客に無料で公開されます。「お雛様めぐり」と名付けられたこの催しは、約1カ月にわたって行われ、やはり町並みを生かして毎年5月に行われる「小さな美術館めぐり」と共に、多くの観光客を引きつけ、町の活性化に一役買っています。

雪と火事によって形成された独特な美しい町並み

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若桜町は、鳥取県の東南端、氷ノ山を中心に、中国山脈が延々と県境に起伏しています。町の大部分は山岳地帯で占められ、集落も標高200~650mの高所に散在しています。中心地の若桜は、四方を山に囲まれたすり鉢状の底部にあり、かつては矢部、山崎、山中、木下氏らの城下町として栄えた町です。 また、若桜は鳥取から姫路に抜ける現在の国道29号、かつての播磨往来の宿場町でもありました。兵庫・岡山両県境に近いこともあり、「因幡の中の播磨」とも呼ばれ、山陰と山陽の文化や物資が交錯していました。 現在では、城下町としての面影は、その町割にわずかに残っているにすぎません。しかし、宿場町・若桜としての姿は、今でも町のあちこちに見ることが出来ます。 その若桜の家並の特徴は、「カリヤ」という、現在のアーケードのような通りにあります。若桜は、西日本のスキーのメッカになっているほど積雪が多い地域です。カリヤとは、家と道路の間に設けられた幅1.2mほどのひさしのついた私道で、豪雪地帯に住む人々の生活の知恵が生み出したものです。現在では、このカリヤ通りも途切れていますが、かつては「カリヤづたいに傘いらず」と里謡にうたわれたように、カリヤが続き、雪や雨の日でも傘なしで通り抜け出来ました。 このカリヤ通りの裏は、蔵通りと呼ばれる白壁土蔵群が続き、かつての若桜宿の繁栄をしのばせています。蔵通りは、2度の大火に見舞われた明治期に作られたもので、火災を食い止めるために、土蔵以外の建物を建てることが禁じられた名残です。通りを挟んで蔵の反対側には、寺が軒を連ねていますが、これらの寺も防火のため、1カ所に集められたのだといいます。 また、若桜町には、集落すべてが平家姓を名乗る落折という集落があり、3月3日、初節句の男の子に弓を引かせる習わしが、数百年の昔から続いています。この行事を雛祭りにやるのは、源氏に男児の誕生を悟られないためといい、以前は町の人ですら、この行事の存在を知らなかったそうです。

『おくの細道』旅立ちの地、旧日光街道・千住宿

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「彌生も末の七日、あけぼのの空朧々として、(略)むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふところにて舟をあがれば、・・。」 松尾芭蕉が、曽良と共に「おくの細道」へと旅立ったのは、1689(元禄2)年3月27日のことでした。深川から隅田川をのぼり、千住で陸にあがった芭蕉は「行く春や鳥蹄き魚の目は泪」を矢立初めとして日光街道を北へ向かいました。 その句碑は千住大橋の両側、荒川区南千住のすさのお神社と足立区北千住の橋戸公園に建っています。隅田川最初の橋・千住大橋が架かったのは1594(文禄3)年のことで、芭蕉の頃には既に橋はあったのですが、舟を利用する人も多く、それは昭和の初め頃まで続いていたようです。 千住は江戸と日光、奥州、水戸を結ぶ要所でした。日光街道、奥州街道の宿場として賑わった千住宿は、現在の千住1〜5丁目の間で、東武線、日比谷線、千代田線、常磐線が乗り入れる北千住駅西口になります。1843(天保14)年には総戸数2370戸、うち旅籠55戸、人口約1万人を数え、品川、板橋、新宿と共に江戸四宿の一つとして栄えました。そして、これら四宿の中でも、千住は当時の面影を比較的濃く残しています。 北千住駅前を西へ進むと十字路がありますが、これが旧日光街道です。その十字路を右に折れた最初の路地の西角に本陣跡の石碑が建ちます。この辺りは現在、サンロードと呼ばれ、狭い道の両側に店が並び、まるで縁日のように人がぞろぞろと歩いています。この商店街を抜ける辺りから、かつての宿場の面影を伝える家並がぽつぽつと現われます。 江戸時代から続く地漉紙問屋の横山家は、町家の構えを今に伝えています。その筋向かいには「絵馬屋」があります。江戸の伝統を守る手描き絵馬は、東京では1軒だけになっています。荒川の土手の手前には、江戸の骨接ぎとして知られた名倉医院があります。近くには、名倉医院の患者を預かっていたかつての下宿屋・金町屋が残り、やや傾きかげんの軒灯が、郷愁を呼びます。

養蚕が育てた見事な町並みを今に伝える海野宿

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東御市(旧東部町)は浅間連山の西のはずれ、湯ノ丸、篭ノ登、烏帽子など諸火山の南麓にあり、町の南を流れる千曲川に向かって緩やかに傾斜しています。千曲川に沿って、信越本線と国道18号が走ります。中心地の田中は、周辺農村の買い物町をなし、第二次世界大戦前は製糸工場でにぎわいました。 田中の駅から、信越本線に沿って東へ15分ほど歩くと、かつて北国街道の宿場として栄えた海野宿に出ます。1625(寛永2)年に設けられた宿駅で、今なお東西600mにわたって、昔日の面影を残す家並が続いています。 北国街道は北陸から江戸に至る主街道で、また佐渡の金を江戸へ運ぶ道でもありました。その宿場だった海野の繁栄は想像に難くありません。しかし、どの宿場でもそうですが、幕府が崩壊し、1888(明治21)年に信越本線が開通すると、海野も宿場としての役割を失い、火が消えたようになってしまいました。 多くの宿場は、そのままごく普通の農村に戻ってしまいました。が、海野の場合は違いました。旅籠屋を営んでいた矢嶋行康氏が、欧米視察から帰った旧知の岩倉具視の勧めに従い、養蚕を始めたのが幸いしました。矢嶋氏の成功で、宿場の人たちも次々と転業。旅籠の広い間取りをそのまま蚕室に生かし、最盛期には海野90数軒のうち、半数が「タネ屋」だったといいます。こうして一大変革期をうまく乗り切ったことで、海野は当時の宿駅の姿を今日まで残すことになりました。 しかも、この時、海野の家々は、宿場時代よりもはるかに本格的な家に変わっていきました。確かに、人まかせの旅籠稼業より、養蚕という産業を基盤としたことで生活は安定します。また、その頃は各地で、立派な民家が続々と建てられた時期でもありました。そのため、海野は町並みの長さもさることながら、それぞれの家も古格をとどめて見応えがします。 養蚕をしていた家の最も分かりやすい特徴である越屋根や、卯建、海野格子など、一定のリズムのある美しい家並が続きます。また街道の中央を流れる用水路も、昔のまま残っています。かつての宿場は、たいてい道の中央に用水路がありました。それが、車社会になって道路の狭さからつぶされたり、片隅に寄せられたりして、いつの間にか消えてしまい、全国でも残っているのはここだけだそうです。こうした点からか、海野は文部省の調査ランクでは木曽の馬籠宿より上だといいます。 他にも、東部町に

但馬の静かな城下町。郷愁を呼ぶ町並みを歩く

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出石町は、兵庫県北東部、2005年に近隣市町村と合併して誕生した豊岡市の南部にあります。町の歴史は古く、『古事記』にも名前が記載されているほど。室町時代になると山名氏が居城、山名時代は約200年続きました。しかし、その間、足利将軍家の相続問題にからんで、城主山名宗金は細川勝元と争い、京都を中心に11年(1467-77)にわたる応仁の乱を起こしています。 町の西南端に残る出石城跡は、1574(天正2)年、山名祐豊の築城。1580(天正8)年、羽柴秀吉に攻められて落城し、秀吉の家臣青木勘兵衛が城主となりました。次いで前野但馬守が入り、1595(文禄4)年、龍野から小出吉政が入封、5万3000石を領しました。 出石が、本格的な城下町としての体裁を整えるのは、この小出氏2代・吉英の代になってから。吉英は、1604(慶長9)年、有子山山頂にあった山城を山麓に移し、城郭を囲んで武家屋敷を置き、その外に町家、更に外側に下級武士を住まわせ、城の固めとしました。この時造られた碁盤目状の町筋は、その後あまり変わっていません。 小出氏は9代続いた後、松平氏を経て、1706(宝永3)年、信州上田から仙石氏が入封、7代伝えて明治維新に及んでいます。この間、仙石氏は5万8000石を領していましたが、天保年間(1830-43)に起きたお家騒動(講談などで知られる仙石騒動)で、3万石に格下げされています。 こうして出石は、室町、戦国、桃山、江戸と約400年にわたり城下町として、その歴史を刻んできました。その風情は、現代にも伝えられています。明治の末、山陰線の敷設工事が始まった時、町民が鉄道敷設に猛反対、路線は大きく迂回しました。おかげで、昔ながらの町並みと共に、但馬の小京都と言われる静かなたたずまいが残ることになりました。 出石城跡のすぐそばには、仙石騒動の首謀者・仙石左京などが住んでいた家老屋敷があり、また城跡の下には町のシンボル・辰鼓櫓が残ります。辰鼓櫓は見張り台として設けられたもので、この上から太鼓を打ち鳴らし登城の合図としました。その時刻が辰の刻(午前8時)であったことが、その名の起こりです。今は電気時計になっていますが、やはり辰の刻には太鼓のテープが時を知らせています。 その他、街道の備えでもあった経王寺や見性寺のものものしい造り、出石生まれの沢庵禅師が再興した宗鏡寺、250年の歴史を持

江戸総鎮守の神田明神からオタクの街秋葉原まで

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徳川家康が、江戸に幕府を開いたのは、今から400年以上前の1603年のこと。大規模な城下造成の中で、神田明神を江戸城の鬼門の方角となる現在地に移し、江戸総鎮守としました。以来、神田明神の祭礼・神田祭は、徳川将軍が上覧する天下祭として江戸城入城を許され、江戸市中を挙げて盛大に執り行われるようになりました。 現在では、京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本三大祭りの一つとされ、奇数年に「本祭」、偶数年に「蔭祭」が行われます。これは、江戸の繁栄と共に祭りが派手になってきたため、1681(天和元)年以後、山王祭と隔年で本祭を行うことになったためです。 一般に神田祭と言う時は、本祭を指します。祭礼の中心は、100基以上の神輿が町に繰り出し、宮入りを行う神輿渡御です。中でも旧神田青物市場の江戸神社神輿はその大きさ、重さから千貫神輿と呼ばれ、迫力に満ちた宮入りに群衆の興奮もピークに達します。蔭祭の方は、この神輿が出ない小規模なものになっており、どうせ見るなら、奇数年の方がお勧めです。6日間にわたる祭りでは、神輿や山車に曳き物、踊り手が加わり、数千人の大行列となって神社へと向かう神幸祭など、他にも見所が多くあります。 ところで、神田というのは、千代田区北東部の地区名で、旧東京市神田区に当たります。1947(昭和22)年に神田区と麹町区が合併して千代田区が誕生した際、神田神保町、神田駿河台など、旧神田区内の町名には全て「神田」を冠称する町名変更がなされました。その後、1964(昭和39)年に住居表示制度が導入され、古くから続く町名の多くが消滅しましたが、一部を除き、神田を冠する町名の多くは住居表示未実施のまま現在に至っています。 そんな神田を冠する町の代表・神田神保町は、古書店街で知られます。神田神保町は、神田地区の西端にあり、130余の古書店が軒を連ね、和書、洋書、漢書、学術書、雑誌、地方出版書など、あらゆるジャンルの古書を扱っています。店内には、わずかな歩行スペースのみ残して本の壁が築かれ、店頭にも積み上げられています。 古書店街の誕生は明治初期、近隣の学生や知識階級が、本を要したことに始まります。印刷・製本技術の発達や文芸活動、また神田駿河台を中心に設立された各種学校の教科書需要に伴い発展してきました。関東大震災では、大部分の店が崩壊、焼失しましたが、東京市の官庁・学校図書館の復

大陸文化の玄関口、西海に浮かぶ歴史の島 - 福江

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五島列島は、東シナ海に浮かぶ、大小100余りの島々からなります。その大部分が、西海国立公園に含まれ、美しい自然に恵まれています。五島列島の中で、最も大きな島は福江島で、かつては福江市と、富江、三井楽、玉之浦、岐宿の4町がありましたが、2004年に奈留島の奈留町を加えた1市5町で合併、五島市になりました。合併前、列島唯一の市であった福江が、五島市の政治、経済、文化、交通の中心となっています。 五島列島は、東シナ海をはさんで大陸と対しているため、古くから大陸航路の拠点ともなっていました。8世紀以降の遣唐使は、平戸をへて五島列島から揚子江を目指すルートがとられ、福江島の岐宿の港には、最澄や空海も、風待ちのため寄泊したといいます。岐宿町の魚ケ崎公園に建つ「遣唐使船寄泊の碑」に書かれた「辞本涯」は、空海の書から引用したもので、「日本の果てを去る」の意味になります。 中世に入ると、東シナ海には、松浦党を中心とする倭寇が出没。松浦、平戸、五島を拠点に台頭しました。やがて明の海賊も加わり、規模も大型化、「八幡大菩薩」の幟を掲げ、遠くルソン、マカオ、ジャカルタまで勢力を延ばしました。この八幡船の広範囲な活動が、ポルトガル船の平戸入港を促し、日本とヨーロッパとの貿易のきっかけともなりました。 五島氏の城下町である福江も、それらの拠点の一つでした。五島氏は明の海賊王直と結び、密貿易に乗り出し、居住地を提供するなど厚遇していました。福江市内には当時の史跡も数多く残り、海賊たちが行き交っていたであろう街の様子を彷彿とさせます。 福江の港から福江川を少しさかのぼると唐人橋があります。この辺りが王直の居館跡で、橋のたもとには、彼らの道祖神の聖廟・明人堂が建てられています。また、王直が、自分たちの飲料水用に、明の手法を用いて掘ったと言われる純中国式の六角井戸も残っています。 五島氏の居城である石田城は、1863年、黒船の来航に備えて築かれた城で、日本で最も新しい城と言われます。三方が福江港に面し、満潮時にはさながら海の浮城のようであったといいます。ただ、残念ながら今は埋め立てられ、普通の外掘と変わらない外観となっています。 市内の武家屋敷街には、いかめしい門構えと城を思わせる石垣塀を持つ家並が続きます。石垣は、外敵を防ぐためのこぼれ石と呼ばれる丸い小石を積み重ね、その両端を蒲鉾型の石で止めており、