『おくの細道』旅立ちの地、旧日光街道・千住宿

「彌生も末の七日、あけぼのの空朧々として、(略)むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふところにて舟をあがれば、・・。」

松尾芭蕉が、曽良と共に「おくの細道」へと旅立ったのは、1689(元禄2)年3月27日のことでした。深川から隅田川をのぼり、千住で陸にあがった芭蕉は「行く春や鳥蹄き魚の目は泪」を矢立初めとして日光街道を北へ向かいました。

その句碑は千住大橋の両側、荒川区南千住のすさのお神社と足立区北千住の橋戸公園に建っています。隅田川最初の橋・千住大橋が架かったのは1594(文禄3)年のことで、芭蕉の頃には既に橋はあったのですが、舟を利用する人も多く、それは昭和の初め頃まで続いていたようです。

千住は江戸と日光、奥州、水戸を結ぶ要所でした。日光街道、奥州街道の宿場として賑わった千住宿は、現在の千住1〜5丁目の間で、東武線、日比谷線、千代田線、常磐線が乗り入れる北千住駅西口になります。1843(天保14)年には総戸数2370戸、うち旅籠55戸、人口約1万人を数え、品川、板橋、新宿と共に江戸四宿の一つとして栄えました。そして、これら四宿の中でも、千住は当時の面影を比較的濃く残しています。

北千住駅前を西へ進むと十字路がありますが、これが旧日光街道です。その十字路を右に折れた最初の路地の西角に本陣跡の石碑が建ちます。この辺りは現在、サンロードと呼ばれ、狭い道の両側に店が並び、まるで縁日のように人がぞろぞろと歩いています。この商店街を抜ける辺りから、かつての宿場の面影を伝える家並がぽつぽつと現われます。

江戸時代から続く地漉紙問屋の横山家は、町家の構えを今に伝えています。その筋向かいには「絵馬屋」があります。江戸の伝統を守る手描き絵馬は、東京では1軒だけになっています。荒川の土手の手前には、江戸の骨接ぎとして知られた名倉医院があります。近くには、名倉医院の患者を預かっていたかつての下宿屋・金町屋が残り、やや傾きかげんの軒灯が、郷愁を呼びます。

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