江戸総鎮守の神田明神からオタクの街秋葉原まで
現在では、京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本三大祭りの一つとされ、奇数年に「本祭」、偶数年に「蔭祭」が行われます。これは、江戸の繁栄と共に祭りが派手になってきたため、1681(天和元)年以後、山王祭と隔年で本祭を行うことになったためです。
一般に神田祭と言う時は、本祭を指します。祭礼の中心は、100基以上の神輿が町に繰り出し、宮入りを行う神輿渡御です。中でも旧神田青物市場の江戸神社神輿はその大きさ、重さから千貫神輿と呼ばれ、迫力に満ちた宮入りに群衆の興奮もピークに達します。蔭祭の方は、この神輿が出ない小規模なものになっており、どうせ見るなら、奇数年の方がお勧めです。6日間にわたる祭りでは、神輿や山車に曳き物、踊り手が加わり、数千人の大行列となって神社へと向かう神幸祭など、他にも見所が多くあります。
ところで、神田というのは、千代田区北東部の地区名で、旧東京市神田区に当たります。1947(昭和22)年に神田区と麹町区が合併して千代田区が誕生した際、神田神保町、神田駿河台など、旧神田区内の町名には全て「神田」を冠称する町名変更がなされました。その後、1964(昭和39)年に住居表示制度が導入され、古くから続く町名の多くが消滅しましたが、一部を除き、神田を冠する町名の多くは住居表示未実施のまま現在に至っています。
そんな神田を冠する町の代表・神田神保町は、古書店街で知られます。神田神保町は、神田地区の西端にあり、130余の古書店が軒を連ね、和書、洋書、漢書、学術書、雑誌、地方出版書など、あらゆるジャンルの古書を扱っています。店内には、わずかな歩行スペースのみ残して本の壁が築かれ、店頭にも積み上げられています。
古書店街の誕生は明治初期、近隣の学生や知識階級が、本を要したことに始まります。印刷・製本技術の発達や文芸活動、また神田駿河台を中心に設立された各種学校の教科書需要に伴い発展してきました。関東大震災では、大部分の店が崩壊、焼失しましたが、東京市の官庁・学校図書館の復興計画を得て、飛躍的な発展を遂げ、第二次世界大戦後は新制大学の新設・拡充に加え、新刊の不足から古書の需要が増大し、業界は拡大してきました。活字離れが叫ばれて久しい現代でも、世界的に希有な書店街として、その価値を高めています。
また、神田駿河台周辺には、明治維新後から各種学校が設立されました。現在も明治大学、日本大学など、多くの大学、専門学校が、御茶ノ水駅近くを本拠地としています。この辺りには楽器店やスポーツ用品店も集中し、特異な商店街を形成しています。
一方、神田を冠称しない町の一つ外神田は、神田の最北端にあり、一般には秋葉原と呼ばれるエリアになります。秋葉原の電気街は、神田明神からも近く、参道を出て200mほど下ると、鮮やかな色をした電気店の看板やさまざまな音があふれてきます。
電気街は戦後、ラジオ部品を専門に扱う闇市が、露店整理令によってガード下に集められ、民間ラジオ放送開始に伴う需要と、交通の利も手伝って発展してきました。昭和30年代に三種の神器と言われたテレビ、冷蔵庫、洗濯機に始まる家電の普及は、カラーテレビ、ビデオ、電子レンジへと広がり、街は急成長を遂げました。
近年ではオタクの街として有名になり、最近はメイド喫茶に代表されるコンセプトカフェ(コンカフェ)も多く、アイドルや忍者、電車の車掌など、多様なキャストがもてなしてくれるそうです。
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