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天下分け目の関ケ原を抱える西濃地方

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昨日のブログ( さまざまな文化が入り交じる東濃地方 )で、岐阜県南東部の東濃地方について書きましたが、今日は岐阜県南西部の西濃地方の記事です。 西濃は、一般的に大垣市、海津市、神戸町、輪之内町、安八町、揖斐川町、大野町、池田町、養老町、垂井町、関ケ原町の9市町を指します。岐阜県の自然を表す言葉に「飛山濃水」があります。山の飛騨と、木曽三川に代表される水の美濃という対比ですが、西濃の政経の中心である大垣市は「水都」と呼ばれるほどです。 大垣市が水の都と呼ばれる理由の一つに、豊富な地下水の恵みにより、自噴水が数多く見られることがあります。更に、市内には中小の河川も多く、揖斐川とその支流の牧田川などが外周部を流れ、水門川、杭瀬川、大谷川などが市内を貫流しています。 市内を流れる河川の一つ水門川は、大垣城の外堀として築かれ、揖斐川を介して、大垣と三重県の桑名宿を結ぶ運河の役割を持っていました。大垣はまた、松尾芭蕉が、「おくの細道」紀行を終えた地としても知られますが、芭蕉も、この水門川を船で下り、桑名を経由して江戸へ戻っています。 水門川が外濠となっている大垣城は、全国的にも珍しい4層の天守を持つ城で、大垣市のシンボルとなっています。天下分け目の関ケ原合戦で、石田三成を盟将とする西軍の本拠地であったことで名高い城です。 大垣城が、歴史の表舞台に登場してくるのは、1600(慶長5)年のことで、その年6月、徳川家康が、上洛に応じない会津の上杉景勝を討つという名目で、大坂城を出発しました。豊臣氏ゆかりの加藤清正や福島正則らもこれに従って、7月には江戸城に入りました。 当時、五大老トップの家康と、五奉行の一人石田三成が対立。家康は、三成に挙兵させてこれを叩く機会をうかがっていたとされ、会津攻めは、そのための布石であったと言われます。 家康の軍勢が会津へ向かったとみた三成は、毛利輝元を担ぎ出して諸将に呼び掛け、7月、まず伏見城を落として、8月、6000の兵を率いて大垣城に入りました。計算通り三成が動いたので、家康も会津攻めを中止して兵を引き返し、家康軍の先鋒となった福島正則らは、岐阜城を攻めました。 家康は、9月1日に江戸城を発ちましたが、城攻めをする気はもともと無く、三成軍を関ケ原に誘い出し、野戦で決着をつけようという作戦に出ました。家康軍は「一気に大坂城を討つ」というフェイクニュー

さまざまな文化が入り交じる東濃地方

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岐阜県はかつて、北部が飛騨、南部が美濃と、二つの国に分かれていました。今もその頃の名残で、飛騨や美濃という言葉があちこちで使われます。例えば、岐阜県南東部は美濃の東部ということで東濃、岐阜県南西部は美濃の西部で西濃といった具合です。 東濃は、一般的に多治見、土岐、瑞浪、恵那、中津川の5市のことで、北を長野県、南と東を愛知県と接しているため、両県とのつながりが深く、昔からさまざまな文化が入り交じっていました。この地方に、東濃歌舞伎と呼ばれる地歌舞伎がありますが、これも人や物が盛んに往来し、芸能文化などが入ってきやすい環境だったからでしょう。 地歌舞伎というのは、アマチュアの人々が行う歌舞伎のことです。地歌舞伎自体は、全国各地で行われていましたが、現在残っている地歌舞伎(地芝居、農村歌舞伎、素人歌舞伎)の保存会は、日本全体で200件ほどだそうです。東濃には、そのうち全国最多の30件があり、昔ながらの芝居を継承しています。しかも、地歌舞伎では芝居を演じるだけでなく、独自の芝居小屋もあって、舞台作りを含め何から何まで地元の人がこなします。 また、ここには、独特のカツ丼文化もあります。カツ丼というと、つい先日、福井県民のソウルフード「ソースカツ丼」について書きましたが( ソースカツ丼発祥の店ヨーロッパ軒総本店を訪問 )、ここには、もっと複雑なソースカツ丼が存在します。 私を、その世界に誘ってくれた東濃の友人によると、多治見だけはトンカツを卵とじにした一般的なカツ丼ですが、ドミグラスソースにケチャップ、しょうゆ、和風だしなどを合わせたタレをかける土岐の「てりカツ丼」を始め、瑞浪の「あんかけかつ丼」、恵那の「デミかつ丼」、そして中津川の「しょうゆかつ丼」など、そのラインアップは多士済々。で、友人たちが、その中から実際に案内してくれたのは、見た目からしてインパクトがある、瑞浪の「あんかけかつ丼」でした。 あんかけかつ丼のお店「加登屋」さんは、JR瑞浪駅から徒歩1分。1937(昭和12)年創業の食堂です。メニューは、丼物やうどん、各種定食に一品料理など、非常に豊富ですが、なんと言っても、あんかけかつ丼が一番人気。 卵が貴重だった創業時に、少ない卵でボリュームを持たせようと、先々代が考案したそうです。カツオやムロアジなど5種類の魚系だしをブレンドし、あんは葛でとろみをつけています。上品

東海随一の紅葉の名所・香嵐渓と足助の町並み

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かつて編集に携わっていた雑誌で、写真家の前田真三さんに1年間表紙をお願いしたことがあります。その5月号に、前田さんが選んだのは、霧がたちこめた奥三河の杉林でした。 この時は、表紙にまつわるエッセーも書いて頂いたのですが、その中で前田さんは、かつては奥三河というと、「悪路ばかりが印象に残っていて、平凡な山村風景に心を引かれるということはなかった」と記しています。しかし、ある機会を得てから、数多くこの地を訪れるようになったそうです。そして、「今まで、まったく見栄えのしないと思っていた奥三河の風景が、非常に新鮮なものに見えるようになってきた。それは、そこに日本の山村風景の原点のようなものが潜んでいることを、感じとったからである」と書いています。 愛知県は大きく、尾張地方と三河地方に分かれます。そのうち三河の北東部にあたる地域が「奥三河」になります。現在の行政区分で言うと、新城市(南設楽郡)と北設楽郡、そして豊田市北東部(旧東加茂郡・足助地区や旭地区など)が該当します。 で、これまでこのブログ( 私のルーツ旅その二 - 新城編 など)で何度か触れていますが、我が家の家譜でたどれる確実な祖先というのは、私から数えて14代前の鈴木重勝という人で、今の新城市を本拠としていました。三河には、穂積姓鈴木氏の本宗家・藤白鈴木氏の流れを汲む三河鈴木氏という系統がありますが、我が家の祖先はその流れの一つのようです。 その三河鈴木氏の祖は鈴木重善で、甥である藤白鈴木氏11代目当主重家とその弟重清が、源頼朝と対立して奥州へ逃れる義経に従って行動していため、その後を追う途中、三河国矢並(現在の愛知県豊田市矢並町)に来たところで足を痛め、逗留して回復を待つ間に、義経を始め重家・重清も討死にしてしまい、奥州行きを諦め、そのままこの地に永住することになったと伝えられます。そして、重善の後裔は、矢並を拠点に勢力を広げ、重善から数えて8代目の重就の子どもが足助(兄・忠親)と酒呑(弟・重時)に分かれ、更に酒呑系から寺部と則定へと分かれていったようです。これらの土地は全て、現在の豊田市になります。 我が家の祖先である鈴木重勝は、酒呑系だったようですが、重時以降、どのようにして新城方面へ勢力を広げていったのかは分かりません。一方、兄の忠親を祖とする足助鈴木氏は、忠親の後、重政、重直、信重、康重と5代が続き、家康

熱海に見る日本古来の「おもてなしの心」

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今から15年ほど前のお盆休みに、娘と2人の姪を連れて、熱海に行きました。 初日は、足湯&足裏マッサージを体験。娘たちは初めてのマッサージながら、結構、平気な顔をして、気持ち良さそうにしていました。最後に私もやってもらったのですが、足裏の時は内臓は健康ですね、と太鼓判。ところが、指への刺激に移ってからが、さあ大変。指によっては、強烈な痛みを伴いました。どうやら、腰、肩、目に関わるツボのようでした。 「でも、お嬢さんたちの方が、ひどかったですよ」と、店の人。いちばん上の姪は肩に鉛が入っているよう。下の姪は、目がかなりひどい状態。我が家の娘も、足が相当、凝っていた模様。後から聞いたら、みんな飛び上がらんばかりの痛さを堪えていたとか。かわいいもんです。 ところで、この店で、我々一行はゼミ旅行と間違われました。私が教授で、学生をマッサージに連れてきてあげた、という想像だったようです。当時、上の姪と娘は大学生、下の姪は高校生でしたが、この子は身長が高く、また3人とも同じ中高一貫の女子校に行っていたので、姉妹と従姉妹ということもあって、雰囲気がそもそも似ていたのでしょう。 明けて2日目は、朝から 岩盤浴 。「これが本当の岩盤浴!」のキャッチ・コピーと、「うわさ以上の本物だ!」のサブ・キャッチ・・・。これを見る限り、かなり怪しい感じでしたが、とりあえず3人娘に付き合って、私も岩盤浴初体験。 で、どうだったかと言うと、あづい! の一言。10分入って5分休憩を3回繰り返すのですが、かなり体力を消耗するようで、昼食後はあくびが出て仕方がありませんでした。その上、上の姪は、なぜか熱発。当たっちゃったんですかね。 それにしても3人娘、昼食で ビーフシチューを食べた後(私は、「阿藤快お勧めの」という冠がつく、あじ丼でした) 、熱海銀座で目を付けていた レトロな喫茶店 で、特大のバナナパフェやクリームあんみつ、パンケーキを平らげるという食欲を開示。あれだけ汗をかいても、結局、太ったんじゃないか、という珍道中でした。  ◆ さて、そんな熱海に、日本開国後の初代駐日総領事として着任したオールコック卿にまつわる、ちょっといい話があります。 ラザフォード・オールコック卿(1809-1897)が、駐日イギリス総領事として着任たのは1859(安政6)年、日本は攘夷運動で騒然としている最中でした。翌年3月、桜

土地の人から「神の島」と崇められる雄島の森を歩く

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九頭竜川河口に臨む古くからの港町三国。東尋坊、越前松島、雄島など自然景観に恵まれ、越前加賀海岸国定公園の中核として、多くの観光客が訪れます。なかでも東尋坊は約1kmにも及ぶ勇壮な柱状節理が展開し、絶壁に日本海の荒波が打ち寄せるさまは実に豪快です。その東尋坊の北約1.5kmに、越前海岸では最も大きな島があります。 といっても標高27m、周囲2kmほどの島です。この雄島は約1200万年前に噴出した輝石安山石の岩石島で、海に臨んだ見事な柱状節理が見られます。土地の人は昔から「神の島」と崇めてきました。 島には漁港のある安島から朱塗りの橋が架けられ、歩いて渡れます。橋を渡りきると、島の入口となる鳥居があります。これをくぐり78段の石段を上ると、うっそうとした森が広がり、神秘的な雰囲気が漂います。石段を上りきった正面にはスダジイの林が広がります。その林の中にも、島の中央を通る遊歩道があります。しかし、まずは右回りに1周約1kmの周遊コースを歩いてみましょう。 歩き始めてすぐ、板根を持つタブの大木が見られます。これは表土が浅いためで、森の中の倒木の根を見ても、それがはっきり分かります。雄島は、今ではほとんど見ることの出来なくなった海岸沿いの原生林をまるごと残しており、いろいろな大木の幹がとても美しい島です。 やがて二又の道に出合いますが、右の道を選び海岸沿いを歩きましょう。この辺りはヤブニッケイの純林で、これは全国的にあまり例がなく、学術的にも貴重なものとされています。 ヤブニッケイの林を通り、海に向かって進むと、だんだんと明るくなってきます。雄島は常緑広葉樹の森で、中はうっそうとしてかなり暗いです。森から抜け出ると、まだ昼間であったことに気づくほどです。 海岸沿いの道では、左側に広がる森より、荒波が砕け散る右手の岩場に目がいきます。しかし、海に面した強い風により傾斜した風衝樹林帯などもあり、森からも目が離せません。 それを過ぎるとコオニユリの群生地があります。7月には岩場一帯に、美しい花の競演を見ることが出来ます。周遊コースを半周ほどすると、島の中央を通る遊歩道に再び出会います。ここで左折し、森の中を通ると、エノキやタブなどの大木があり、スダジイの林を通って最初の石段に出ます。周遊コースをそのまま進めば、岩場を通り、大湊神社へ向かいます。 大湊神社は701年の創建と言われ、源

ヨーロッパ軒敦賀本店で念願のパリ丼を食す

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それは、2007年12月26日。仕事で富山へ行った時のことです(いま思うと、よくもまあ、こんな暮れも押し迫った時期に出張なんてしてたものです)。 同行したライターの砂山さん、敦賀から来られたSNさんと共に、当時、富山に住んでいた友人NYさんの案内で、夜の富山を回り、冬の北陸のおいしい魚と日本酒を堪能させてもらいました。 ブリ、ズワイガニなど季節のものから、ノドグロ、黒作り(塩辛)、それに忘れちゃいけない、げんげと・・・。また、日本酒は、立山、勝駒、満寿泉、三笑楽と、それぞれ違う味わいの酒を、的確な順番で飲ませてもらい、2軒目では銀盤という、これまた富山のお酒を味わうことが出来ました。 しかし、それにもまして、砂山さんと私に衝撃をもたらしたのが、NYさんとSNさんが、そろって絶賛したヨーロッパ軒のパリ丼です。「これを食べずには死ねないですよ」とまで言われ、焦りまくる二人。でも、ヨーロッパ軒は福井にあり、その時は叶わぬ夢・・・Impossible Dream・・・と諦め、帰宅したのです。 で、なかなか福井へ行く機会もなく、時は過ぎていきました。そして、あの日から1年半ほど経った2009年の6月11日、東京・築地のいきつけの店で関あじのランチを食べている時、砂山さんから「来てしまいました」というメールが入りました。留守中に、事務所にでも訪ねてきたのかと思ったのですが、メールの本文はなく、添付写真オンリー。 写真には「敦賀ヨーロッパ軒」の暖簾が・・・。どうやら、抜け駆けでヨーロッパ軒を訪問した模様。むむっ! 先を越されたか! 無念な思いで、その報告を聞いた私。でも、各地のソースカツ丼を食べ、ソースカツ丼に対してはウンチクもある砂山さんは、ソースカツ丼発祥の店であるヨーロッパ軒で、ソースカツ丼を食べずパリ丼を食べるという選択が出来なかったらしいのです。つまり、パリ丼はまだ口にしていない! というような長い長い物語があって、私、とうとう2009年7月24日、敦賀に出張した際、SNさんの案内で、無事、「敦賀ヨーロッパ軒」の「本店」に行くことが出来ました。くれぐれも言っておきますが、「本店」です。店構えからして、違います。 写真を入れておきますが、このラブホチックな外観・・・目黒エンペラーではありませんよ。「味のお城」、パリ丼キャッスルです。で、たぶん砂山さんが行った店と同じ暖簾を

ソースカツ丼発祥の店ヨーロッパ軒総本店を訪問

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ある時、シカゴの知人から、イリノイ州にある財団が、福井市の施設にスヌーズレンを導入する支援をしたので、実際に使っているところを見て、リポートしてくれと依頼がありました。 スヌーズレンというのは、重い知的障害がある人たちのためにオランダで考え出された活動と理念です。そして、その実践のために作られたのがスヌーズレンルームで、室内は障害を持つ人が楽しめるよう、光、音、匂い、振動など、感覚に直接訴えるものを組み合わせたトータルリラクセーション空間となっています。 多くの人は、音楽で癒やされたり、スポーツや習い事を楽しんだりと、さまざまな形で余暇を過ごしますが、重度の知的障害を持つ人たちの中には、自分からそうした刺激を求めることが難しい人がいます。スヌーズレンルームは、それらの代わりとなる娯楽だと考えれば分かりやすいかもしれません。 取材で部屋を見学させて頂いた時、スヌーズレンを利用していたのは知的障害を持つ児童一人と、自閉症の少年二人でした。自閉症の二人は社会への適応や他人とのコミュニケーションが苦手で、普段は施設の職員さんたちも対処に困るほどだと聞きました。しかし、それぞれお気に入りのウォーターベッドとボールプールを使う二人を見ていると、本当に重度の自閉症なのかと疑いたくなるほどでした。 ただ、人によっては装置の得手不得手があるようです。例えば匂いに敏感な人は部屋に漂うアロマを嫌ったり、光に過剰反応する人は視覚を刺激するバブルユニットがだめだったり、スヌーズレンによって苦手分野が分かることもあります。その場合、苦手なものを自分や家族が理解して、それを回避するよう対処することも出来ます。また、部屋では職員も一緒に楽しむため、子どもたちとより一層良い関係が構築出来るようになったという話を聞きました。 欧米ではスヌーズレンが、コミュニティーセンターや保育施設にまで広がっています。日本ではまだ一般の認知度は低いものの、知的障害者施設を中心に導入が進んでおり、私がインスタグラムでフォローしている春日部市の障がい者生活介護事業所でも導入されています。今後、更に広がっていくといいですね。  ◆ ところで、福井を訪問したのは4月3日でした。ちょうど、日本さくら名所百選の一つになっている足羽川の桜が満開を迎えており、施設見学の合間を縫って桜も撮影してきました。また、夜はライトアップをして

日本の原風景を見るような環状集落・荻ノ島を訪ねて

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昨日のブログ で、新潟県中越地震の際、柏崎の人たちが、長期にわたって小千谷市総合体育館で昼食の炊き出しを続けた話を書きました。その中心となったうちの一人坪田さんには、1997年にあることで取材させてもらっており、大学の先輩(しかも同学部)ということもあって、炊き出しの件を聞いた時には、さっさと同行を決めたものです。 2007年7月16日、今度はその柏崎を、マグニチュード6.8の激震が襲いました。新潟県中越沖地震です。柏崎市は震度6強を観測。新潟県中越地震から3年を経たずして起こった巨大地震に、日本中が驚き、また被災された方たちの心中に思いをはせました。 3年前の中越地震と同様、この時も、明石の橋本維久夫さんを中心に炊き出しが計画されました。しかも、中越地震の時の参加者に加え、青森県つがる、東京、千葉県野田、奈良県生駒、兵庫県の神戸と姫路からも参加があり、更に中越地震の炊き出しで知り合った、長岡のMTさんが、現地コーディネートを担当してくれ、輪が大きく広がっていました。 以前のブログ( 「震災後初のゴールデンウィークに新地町で炊き出しイベント」 )に書きましたが、橋本さんはいつしか、仲間内では「大体長(※大隊長ではありません)」と呼ばれる存在になっていました。で、この記事を書くため、当時飛び交っていた打ち合わせメッセージを見ていて、橋本さんが大体長と呼ばれることになったきっかけを作った犯人が分かりました。それは、神戸のDHさんで、参加者に呼び掛けるメッセージで、DHさんは「大隊長(本当は大体でええやろう)の橋本さんから指示があり・・・(中略)・・・既に大体長(わざと間違ってます)から・・・」と書いており、以後の流れを作ってしまったようです。 それはともかく、炊き出しは9月1日に200戸の仮設住宅があった刈羽村の源土運動広場で、翌2日には柏崎市西山町のいきいき館でそれぞれ実施しました。柏崎では、ボランティア・センターに詰めていた岩手県立大学の学生ボランティアがさまざまな企画を練り、お年寄りから子どもまでが楽しめるイベントを用意。また、小千谷で昼食の炊き出しを続けた坪田さんたちも、自分たちが被災しているにもかかわらず、駆け付けてくれました。  ◆ この中越沖地震から1年が経った2008年7月、同じ柏崎でも内陸部にある高柳町を訪問しました。高柳町は、地震の2年前、05年に柏

ユネスコ無形文化遺産・小千谷縮の雪さらし

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「雪中に糸となし 雪中に織り 雪水に濯ぎ 雪上に晒す 雪ありて縮あり 雪こそ縮の親と言うべし」 江戸後期の商人で、随筆家でもあった鈴木牧之は、当時の魚沼地方の生活を描いた『北越雪譜』の中で、小千谷縮をこう表現しています。 小千谷縮は、昔からあった越後上布に改良を加えたものです。緯糸に強い撚りをかけた織物を、お湯の中で丹念に強くもむことで、ほどけた布に「シボ」と呼ばれる独特の細やかなしわが出ます。1955年に国の重要無形文化財第1号指定を受けた他、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録されています。ちなみに重要無形文化財の指定条件には、使う糸や織機の他、湯もみ、雪さらしなどの技法も示されています。 雪さらしは、本来は晴れた日に行いますが、小千谷の冬を彩るイベント「おぢや風船一揆」では、デモンストレーションとして天候に関係なく実施されます。2012年に、おぢや風船一揆に行く機会があり、その際、粉雪が舞う中、雪さらしが披露されていました。 ▲小千谷紹介観光ビデオ「小千谷風船一揆」(小千谷市観光協会) 雪にさらすことで麻生地が漂白されると共に、麻糸が更に鮮やかさを増し色柄を引き立てます。その科学的根拠として、一般にはオゾンの漂白効果が挙げられます。実際に日本雪氷学会が雪上のオゾン濃度を調べたところ、確かに晴れた日に上昇し、雨の日は低下する傾向が見られたそうです。ちなみに、雪の日は雨の日ほど濃度の低下はなかったそうですが、やはり晴れた日の方がいいのでしょう。それを経験則として取り入れていた先人の知恵には脱帽するしかありません。 おぢや風船一揆は毎年2月下旬、2日間にわたって開催されます。日本を代表する熱気球大会「日本海カップクロスカントリー選手権」を兼ねたイベントで、今年で45回目となるはずでしたが、残念ながら新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止となりました。 以前は、競技と各種イベントが同一会場で行われていたようですが、雪が少なかった13年前に、競技とイベントを別会場で実施してから現在の形式になったと聞きました。イベント会場では、熱気球試乗体験やうまいもの市場、雪像コンテストなどが実施され、多くの市民や観光客で賑わいます。 小千谷市は、新潟県のほぼ中央、いわゆる中越にあります。2004(平成16)年10月23日に起きた新潟県中越地震では、小千谷でも震度6強の揺れを観

甲府盆地をピンクに染める「桃源郷」の春

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甲府盆地の東端、御坂山地の扇状台地に広がる笛吹市の一宮町と御坂町。春4月、この扇状台地が一面ピンクに染まります。50万本もの桃の木が彩る花模様は、まさに桃源郷の名にふさわしい風景です。 甲府盆地は果樹栽培が盛んです。中でも桃は日本一を誇ります。一宮、御坂などの峡東地方がその中心です。桃の栽培が始まったのは明治中期ですが、戦後、これが急速に伸び、日本一の桃の里と言われるまでになりました。 現在、桃の生産は山梨、福島両県で全国の5割を超えます。どちらも、周囲を高い山に囲まれた盆地の中に桃畑が広がっています。 盆地の冬は寒さが厳しく、逆に夏はひどく暑くなります。冬が寒いと害虫の被害が少なく、夏が暑いと果実が大きく育ち、甘みを増していきます。甲府盆地、福島盆地とも、桃に限らずブドウ、ナシなどの果樹栽培も盛んです。人間には堪える盆地の気候が、果樹栽培には適しているためです。 桃の花は例年、4月中旬が最盛期となります。しかし、一宮や御坂の桃畑は、盆地の底から標高700mの高台まで広がっています。それが平地から山地に向かって順に咲いていくので、花期は約1カ月と、とても長くなっています。 この間、菜の花の黄色やスモモの白い花が彩りを添え、桜が競うように花開きます。背景には残雪をいただいた南アルプスがそびえ、花景色を一層ひきたてます。 また、桃の花は日がたつにつれ色が濃くなっていきます。そのため、緩やかな扇状台地一帯が、ピンクのグラデーションとなります。この風景を楽しむには、俯瞰できる場所がベスト。 一宮町なら狐新居の高台、御坂なら町の南にある花鳥山がお勧めです。また、中央自動車道の釈迦堂パーキングエリア(PA)もいい感じです。下りのPAから釈迦堂遺跡博物館への専用道路があり、これを上って行くと、ピンクの花の海の向こうに、青い南アルプスが望めます。 甲府盆地では、これからが桃の収穫の最盛期。春に人々の目を堪能させてくれた桃が、どんな味で我々の前に現れるか楽しみです。 ちなみに、笛吹市は2004年、石和町、御坂町、一宮町、八代町、春日居町、境川村が合併して誕生(その後06年に芦川村を編入)。翌05年には「桃・ぶどう日本一の郷」を、更に13年には「日本一桃源郷」を宣言しています。 桃は、市内各地で生産されていますが、やはり一宮と御坂が盛んで、フルーツ狩りが出来る観光農園もたくさんあります