天下分け目の関ケ原を抱える西濃地方
昨日のブログ( さまざまな文化が入り交じる東濃地方 )で、岐阜県南東部の東濃地方について書きましたが、今日は岐阜県南西部の西濃地方の記事です。 西濃は、一般的に大垣市、海津市、神戸町、輪之内町、安八町、揖斐川町、大野町、池田町、養老町、垂井町、関ケ原町の9市町を指します。岐阜県の自然を表す言葉に「飛山濃水」があります。山の飛騨と、木曽三川に代表される水の美濃という対比ですが、西濃の政経の中心である大垣市は「水都」と呼ばれるほどです。 大垣市が水の都と呼ばれる理由の一つに、豊富な地下水の恵みにより、自噴水が数多く見られることがあります。更に、市内には中小の河川も多く、揖斐川とその支流の牧田川などが外周部を流れ、水門川、杭瀬川、大谷川などが市内を貫流しています。 市内を流れる河川の一つ水門川は、大垣城の外堀として築かれ、揖斐川を介して、大垣と三重県の桑名宿を結ぶ運河の役割を持っていました。大垣はまた、松尾芭蕉が、「おくの細道」紀行を終えた地としても知られますが、芭蕉も、この水門川を船で下り、桑名を経由して江戸へ戻っています。 水門川が外濠となっている大垣城は、全国的にも珍しい4層の天守を持つ城で、大垣市のシンボルとなっています。天下分け目の関ケ原合戦で、石田三成を盟将とする西軍の本拠地であったことで名高い城です。 大垣城が、歴史の表舞台に登場してくるのは、1600(慶長5)年のことで、その年6月、徳川家康が、上洛に応じない会津の上杉景勝を討つという名目で、大坂城を出発しました。豊臣氏ゆかりの加藤清正や福島正則らもこれに従って、7月には江戸城に入りました。 当時、五大老トップの家康と、五奉行の一人石田三成が対立。家康は、三成に挙兵させてこれを叩く機会をうかがっていたとされ、会津攻めは、そのための布石であったと言われます。 家康の軍勢が会津へ向かったとみた三成は、毛利輝元を担ぎ出して諸将に呼び掛け、7月、まず伏見城を落として、8月、6000の兵を率いて大垣城に入りました。計算通り三成が動いたので、家康も会津攻めを中止して兵を引き返し、家康軍の先鋒となった福島正則らは、岐阜城を攻めました。 家康は、9月1日に江戸城を発ちましたが、城攻めをする気はもともと無く、三成軍を関ケ原に誘い出し、野戦で決着をつけようという作戦に出ました。家康軍は「一気に大坂城を討つ」というフェイクニュー