投稿

豆と野菜、二つの顔を持つスグレもの・枝豆の隠れ産地 - 野田

イメージ
私の住んでいる越谷市は、埼玉県の南東部にあり、東はプロゴルファー石川遼さん出身の松伏町、西は友人でもある大野県知事の地元川口市、南はせんべいで有名な草加市、北はクレヨンしんちゃんの春日部市になります。草加の南は東京都、松伏の東は千葉県という南東部です。 江戸川を挟んで、松伏と接しているのは千葉県野田市になります。野田市はまた、東を利根川を挟んで茨城県と接しており、利根川、江戸川という二大河川の流域では、昔から大豆作りが盛んでした。そのため、大豆を原料とした醤油の醸造業も生まれました。醤油業界最大手のキッコーマンや、白醤油部門最大手のキノエネ醤油も野田が創業地であり、国内約3分の1のシェアを占める日本最大の醤油生産地となっています。 また、近年は隠れた枝豆産地としても注目を集めており、その取材をさせて頂いたこともあります。 野田で枝豆栽培が盛んになったのは25年ほど前から。以来、年々生産量が増え、2002年には出荷量日本一となりました。しかし、野田で枝豆というイメージはなく、なぜか知名度が上がりません。 枝豆をデザインしたコミュニティーバス というのも、その品質の良さゆえ、なかなか一般市場に出回らない幻の枝豆だからなのです。東京の大田市場に出荷されたものも、セリにかかる前に高級料亭などが入札してしまうそうです。仮に消費者の目に触れるとしても、それは一流デパートの食品売り場であったりします。 ただ、ここ数年、せっかく日本一になったのだから、枝豆を使って町おこしをしようとの気運が高まってきました。枝豆豆腐や枝豆かまぼこ、枝豆リキュールなど、さまざまな加工品も生まれ、「 ゆめあぐり野田 」という農産物直売所での販売も始まりました。現在、野田の枝豆生産者300人の1割に当たる約30人が、直売所に枝豆を出しているそうです。 ところで、意外と知られていないようですが、大豆と枝豆は同じものです。枝豆とは未成熟の大豆のことで、収穫しないでおけば大豆へと成長します。 で、大豆を枝豆状態で食べるのは、日本特有の食べ方らしいです。しかも歴史は古く、奈良・平安時代には現在の形で食していたといいます。江戸時代には、夏になると路上に枝豆売りの姿が見られたそうで、当時は枝についたままの状態で茹でた豆を売っていたことから「枝豆」の...

B級グルメの聖地・久留米で焼き鳥のはしご

イメージ
りんどう杯車いすバスケットボール九州大会(写真/田中勝明) 毎年夏、福岡県久留米市で、りんどう杯車いすバスケットボール九州大会が開催されています。今年は残念ながら、新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止となりましたが、予定通り開催されていれば、37回目となるはずでした。 この大会は、民間団体である久留米りんどうライオンズクラブが主催していることもあって、複合的な目的を持って開催されています。その最大の特徴は、久留米市内の中学生が、授業の一環としてゲームを観戦することにあります。中学校ごとに応援チームを決め、鳴り物入りで応援合戦を展開するため、選手たちもいつもよりハッスル。また、その姿勢が子どもたちに伝わり、勇気と感動を与えるという相乗効果をもたらしています。 私も一度、大会を取材させて頂いたことがありますが、中学生による応援合戦の他にも、ハーフタイムにはアップテンポなBGMを流したり、地元小学生のダンス・パフォーマンスを入れたり、大会全体を盛り上げる工夫が凝らされていました。大会に初めて参加したという宮崎の選手も、「まさかこんなに元気のある大会だとは思ってもいませんでした」と話し、他の車いすバスケットボール大会では見られない盛り上がりに、選手たちもより一層燃えているようでした。 りんどう杯車いすバスケットボール九州大会(写真/田中勝明) この時、パフォーマンスに参加した小学生に感想を聞いてみると、その子は、 「いちばん強く心に残っているのは、選手の方々の顔です。とてもキラキラと輝いていました。足が不自由なのに、どうしてあんなに素敵な笑顔が出来るんだろうと思いました。ボールに向かっていく姿は、足が自由に使える私たちよりもたくましく見え、憧れます。感動をもらった分、自分も選手の皆さんに感動してもらいたいと、一生懸命に大きく踊りました」 と話してくれました。 また、大会の常連だという女性チームの選手は、 「大会運営に携わっている方たちが、いろいろな場面で温かく声を掛けてくださったり、選手が試合に集中出来るよう配慮してくださっています。この大会に参加して、多くの方々に支えられていることを改めて実感しました。それに応えるためにも、更に向上したプレーを見せられるよう、これからも練習に励みます」 と、熱い思...

「心の世界」を求めて、出羽三山を旅する

イメージ
山形県の県章や県旗には、三つの山の形が描かれています。それらが象徴するように、山形には独特の山容を持った名山が多くあります。日本百名山に数えられる山だけでも、東の蔵王山、西の朝日岳、南の吾妻山、北の鳥海山と、県の東西南北を囲み、更には古くから信仰の山として知られる月山や、山形、福島、新潟の3県にまたがる大山塊・飯豊山が点在します。 ところで、松尾芭蕉は『おくの細道』の全行程156日のうち3割近い43日間を山形県で過ごしています。『おくのほそ道』の旅の目的は、みちのくの歌枕を訪ねて心の世界の展開を試みることだったと言われます。その中で、俳人で俳文学者の小澤實氏は、『おくのほそ道』にはいくつかの明確な目的地があるとしています。 「まず、挙げられるのは松島と象潟。これは西行に関わる歌枕の地です。もう一つは平泉。西行が二度訪れている地であり、芭蕉も好きだった源義経の最期の地でもあります」。芭蕉が旅立った1689(元禄2)年は西行の五百年忌に当たると共に、義経が平泉で最期を遂げた1189(文治5)年からちょうど500年後のことでした。そう考えると、うなづける説です。 その上で小澤氏は、「出羽三山」という聖地も大変思い入れのある場所だったと思います、と話しています。芭蕉は、出羽三山に6月3日(陽暦7月19日)から10日まで滞在。この間、5日の羽黒山を始め、8日に月山と湯殿山と、三霊山をくまなく踏破し、三山巡礼の句を短冊(山形美術館所蔵)に書き残しています。  涼風やほの三か月の羽黒山(『おくの細道』では「涼しさやほの三か月の羽黒山」)  雲の峯いくつ崩れて月の山  かたられぬゆどのにぬらす袂かな 出羽三山は、山形県の中央にそびえる月山(1984m)・羽黒山(414m)・湯殿山(1504m)の総称で、6世紀に開山されたと言われています。 ただ、三山といっても独立した三つの山があるわけではなく、月山を主峰に、峰続きの北の端に羽黒山、月山の西方に湯殿山があります。それが三山と称されるようになったのは、月山を死者の行くあの世の山として、それぞれ彌陀三尊の座になぞらえたことによるといいます。 そんな月山の姿を、森敦は、芥川賞を受賞した小説『月山』の中で、次のように描写しています。 「・・・月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら...

湯の香ただよう将棋の町 - 天童あれやこれや

イメージ
私、漫画やアニメには疎いのですが、この4月、ひょんなことから『3月のライオン』という作品を知りました。それは、新型コロナウイルス関係の情報を得ようと、Twitterで医クラと呼ばれるアカウントを複数フォローする中でのことでした。 ある医クラ・アカウントが、国際感染症センターの忽那賢志医師のツイートをリツイートしたのが、きっかけでした。忽那さんのオリジナル・ツイートには、「私も『3月のライオン』を日々の生きる糧にしています」という意味のことが書いてありました。このツイートは、羽海野チカさんという方に向けたもので、恥ずかしながら、この時まで、羽海野さんも『3月のライオン』のことも知りませんでした。 私と同じような方もおられるかもしれないので、念のために記すと、羽海野チカさんは東京出身の漫画家で、『3月のライオン』はその代表作。将棋を題材にし、マンガ大賞2011大賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞などを受賞。大友啓史さんが監督し、神木隆之介さん主演で実写化もされ、話題になったようです。なお、この作品は現在も、『ヤングアニマル』(白泉社)で不定期連載中です。 で、羽海野さんと忽那さんですが、お互い面識があったわけではなく、羽海野さんによるツイートが、この出会いの発端となりました。そのツイートは、要約すると、次のような内容でした。 「20年以上前、医学生による面白いブログを見付けて愛読していた。更新がなくなってからも気になって、ペンネームなどを頼りに検索したところ、医師になられていることが分かった。それが今年になって、新型コロナウイルスとの闘いの最前線にいることを知った。20年も自分の記憶の中にいたこの人のサポートが出来ないかといろいろ思いを巡らせるが、現場が混乱している時に、かえって迷惑になるのではという考えも浮かび・・・知らない人からいきなり届いても少し助かるものって何なのだろうといくら考えてもなかなか思いつかなくて」 このツイートが、羽海野さんのファンを中心に拡散。それが、忽那さんの妹さんの目に止まり、忽那さん本人が登場することになります。実は忽那さんは、その頃、新型コロナのためにアカウントを停止していたようですが、妹さんから話を聞いてアカウントを戻し、羽海野さんに向けての返信が、その復活ツイートとなりました。 その後...

二十世紀梨のルーツは矢切の渡しで知られる江戸川沿いの街

イメージ
本土寺のアジサイ 松戸市は千葉県北西部、ここより西は江戸川を挟んで東京都と埼玉県になります。古くは水戸街道の宿場町として栄え、江戸や水戸との関わりが深く、将軍家や、水戸黄門こと徳川光圀など水戸藩の藩主が鷹狩りに訪れていたようです。 松戸市の北端に近い長谷山(ちょうこくさん)本土寺には、徳川家康の側室・秋山夫人の墓があり、その墓石は、光圀が建立したと伝えられています。秋山夫人は、甲斐武田家の家臣秋山虎康の娘で、家康との間に生まれた信吉は、武田氏の名跡を継ぎ武田信吉を名乗りました。信吉はその後、家康の関東移封に従って、下総国小金城3万石(現在の松戸市)へ移り、この時、松平姓に復し、松平信吉と改名しました。 本土寺 以前のブログ( 私のルーツ旅 水戸・常陸太田編 )でも触れましたが、信吉は、出羽に転封となった佐竹氏に代わって常陸に入封。が、その翌年、21歳の若さで病死してしまいます。次に水戸へ入った家康の十男頼宣も、間もなく駿府、紀州と転封となり、紀州徳川家の祖となります。頼宣の後は、その弟で家康の十一男頼房が入封。この頼房以降を水戸徳川家と呼び、水戸徳川2代目が、頼房の三男光圀となります。 光圀にとって秋山夫人は、叔父である信吉の母という間柄ですが、信吉は水戸徳川家の藩祖というわけではありません。しかし、儒教に強い影響を受けていた光圀は、父頼房の兄で、最初に水戸へ入った信吉にも、礼を尽くすべきと考えたのかもしれません。 本土寺は、JR常磐線北小金駅から歩いて10分ほど。駅から寺へ向かう道は、松と杉の並木が続く参道で、これらの木々は光圀が寄進したと伝えられています。本土寺は別名「あじさい寺」と呼ばれ、初夏には1万株のアジサイや5000株のハナショウブが咲き誇ります。また、春は桜、秋には紅葉が境内を彩ります。 松戸は、最初に書いたように、江戸川を挟んで東京、埼玉と接しています。市の最も南にある矢切には、細川たかしのレコード大賞受賞曲でも知られる「 矢切の渡し 」があります。矢切の渡しは、江戸初期、利根川水系河川の街道筋15カ所に徳川幕府が設けた渡し場のうちの一つ。松戸市の矢切と東京都葛飾区の柴又とを結んでいます。現在、東京近辺で定期的に運航されている渡しは、この矢切の渡しだけになってしまいました。 矢切...

北の比叡山・杣山のふもとに広がる花ハスの里 - 南条

イメージ
南越前町は、2005(平成17)年に、今庄町、南条町、河野村が合併し発足しました。福井県のほぼ中央にあり、近畿から同町以北の北陸地方へ入る際、必ず通らなければならない交通の要衝となっています。 このうち旧南条町は、東西を山に挾まれ、町の中央を日野川が流れています。町の東北には越前富士と呼ばれる日野山が、南東には南朝の忠臣瓜生保が居城した杣山があります。杣山は、古くは北の比叡山とも呼ばれ、平安時代には山麓から山頂にかけて多くの僧坊が並び、杣山三千坊とうたわれました。 その杣山のふもとに、今、ハスの畑が広がり、夏になると淡いピンクの花が咲き誇ります。この畑は、よくある蓮根用ではなく、花をとるために作られたものです。 南条で花ハスの生産が始まったのは1973年。減反で空いた田圃を活用することを目的にスタートしました。最盛期には、栽培面積15ha、全国の約7割となる12万本の花ハスを出荷していました。 近年は、生産者の高齢化もあり、若干規模を縮小していますが、それでも7戸の農家が南条蓮生産組合に加入し、栽培を継承。7、8月のお盆には、全国の約6割、7万本の花ハスを全国各地へ出荷しています。 ハスと言えば、一般に仏花として扱われます。『枕草子』には、「はちすは、ようつの草よりもすぐれてめでたし。妙法蓮華のたとひにも、花は仏に奉り実は数珠に貫き、念仏して往生極楽の縁とすればよ。また花なきころ、緑なる池の水に咲きたるもいとをかし」 とあります。「はちす」は、ハスの古名。既に平安時代、ハスが仏教と深く結びついていたことが分かります。 インドの仏典などを見ても、ハスの花がよく出てきます。母親マーヤがブッダを身籠もった時、地中から一本のハスが出て、花が咲き出す。あるいは母親の右腹から生まれたブッダが歩くと、大地が割れてハスの花が咲き出す、といった記述があります。 また、「水中に生まれて、良い香りがあり、愛すべき白いハスが、水のために汚されず成長するように、ブッダが世間に生まれ住み、世間に汚されないのは、赤いハスが、水に汚されないようなものである」という意味の弟子の詩もあります。 つまり、ブッダをたたえる本質がハスにあるということで、更にブッダの入滅後、ハスはますます出世します。ガンダーラで生まれ、仏教の教...

厳しくも美しい大自然。秘境しれとこを行く

イメージ
夕日に染まる流氷(プユニ岬) 斜里の取材に同行してくれたのは、定期観光バスを運行している斜里バスの社長(当時)斉藤勉さんでした。しかも、斉藤さんは、写真を趣味としており、撮影ポイントも熟知していました。この時の撮影を依頼したカメラマンのI氏は、私が担当していた雑誌の写真コンテストで審査員を務めており、斉藤さんは、その常連でもありました。 そのため、I氏がこんなロケーションがあれば、とつぶやけば、それはどこそこに行けば撮れるとか、後少し行くと木々の間隔が空いて視界が開けるとか、ピンポイントで撮影スポットへ案内してくれました。また、タラの寒干しを撮影する際には、高所作業車を用意しておいてくださり、俯瞰で干し場の光景を撮影させて頂きました。 そんな至れり尽くせりの取材が終わり、知床グランドホテルのロビーで、斉藤さんやホテルの桑島常禎社長(当時)らから、流氷にまつわる話を伺っていた時のこと。同席者の一人が、流氷オンザロックの話題を持ち出し、流氷を読者プレゼントにしたら、と話が展開。すると桑島社長が、ホテルでは冬の間、流氷を常設展示しているので、それをきれいにして提供しましょうと言ってくださったのです。ひょうたんから駒、この斜里取材の掲載号では、知床グランドホテルの協力の下、その年接岸した正真正銘の流氷を読者にプレゼントすることになりました。  ◆ 斜里は、寛政年間(1789~1801年)に日本人が入った漁業の集落で、明治になってから、本格的な開拓が始まりました。斜里平野での畑作、酪農、斜里やウトロの漁港を基地とした漁業、それに知床での林業などが、町の根幹を支え、農水産物や木材の加工なども盛んです。大自然に抱かれた町は、まさに人と自然との調和の姿を示し、知床国立公園内100平方m運動というナショナル・トラスト運動の中心地にもなっています。 秋。サケ、マスたちが、一斉に、そんな斜里の川をさかのぼります。ヒグマがそのサケを捕らえ、長い冬眠に備えて腹ごしらえをします。オジロワシやオオワシも、北の地方から渡って来ます。やがて知床連山が雪を被り始め、流氷の訪れと共に本格的な冬がやって来ます。 斜里の人たちは、 「今日は、流氷がいないなア」 「昨日まで、いっぱいいたのに」 などと、まるで流氷が生き物であ...

山国・信州の水産加工 - 八ケ岳山麓寒天物語

イメージ
大学時代、ホテル研究会というサークルに入っていました。サークルに入ったのは、完全に魔が差したというか、まんまと釣られたというか、とにかく、何かの志があって入部したわけではありませんでした。 ただ、仲の良かったクラスメイト2人が一緒だったことと、同期入部の13人が全員男で、男子校的ノリが心地良かったこともあり、そのまま居続けました。そして、自分たちが幹事団を結成する3年の時、何がきっかけか思い出せませんが、「学生ロッジ」建設プロジェクトに取り組むことになりました。 建設候補地は、長野県の原村。八ケ岳山麓にある高原の村で、その頃、ペンションビレッジなども出来、夏の避暑地として、少しずつ注目を集めていました。 私たちは、現地調査のため、よく原村のペンションに泊まって、聴き取り調査をしたり、ロッジの候補地や周辺環境を調べて回りました。また、法学部の部員を中心に、土地の貸借契約についても調べ、運営形態なども含めて、実際に即した形で検討をしていました。 原村までは、いつも中央自動車道を使い、諏訪湖ICから入っていました。一方、鉄道利用の場合は、新宿から特急に乗り、茅野まで2時間弱。ロッジ建設予定地は、茅野駅から10km強の距離にありました。当然、現地調査では、鉄道利用の主要駅である 茅野駅 でも、月ごとの乗降客数や原村へのアクセスなどを調べました。 新宿から中央線の特急に乗り、山梨県から長野県に入ると、車窓右手に八ケ岳連峰の雄姿が見えてきます。冬には雪を被った峰々が、いかにも信州らしい風景を見せてくれます。やがて列車が茅野駅に近づく頃、今度は左手の車窓に展開する景色が、旅客の目を奪うはずです。 白いジュータンを敷き詰めたようなその光景は、信州の冬の風物詩・寒天の凍乾風景です。 最近、寒天が一大ブームを巻き起こしたことがありました。あまりの人気に、一時、店頭から寒天が消えてしまったほどです。 火付け役は、イギリスの国際的な医学雑誌に掲載された横浜市立大学医学部の研究報告でした。それは、糖尿病患者を二つのグループに分け、一方のグループだけ、食前に寒天を摂取してもらったところ、血糖値が低下。更にコレステロール値から血圧、体重、体脂肪まで減少したというものでした。 これをNHKの情報番組が取り上げ、次...

阿武隈川畔の冬の風物詩「あんぽ柿」

イメージ
隣はもう宮城県という福島県最北の町・伊達市。その伊達市の中でも一番北にあるのが、古くからの城下町・梁川です。鎌倉、室町時代には伊達氏が梁川城を築き、この地を本拠に奥州に君臨しました。その後、蒲生、上杉、松平氏の時代を経て、幕末には松前藩の所領となって明治を迎えました。 かつては「蚕都梁川」と呼ばれたように、養蚕業が盛んでしたが、いまはそれに変わり、ニットの町として、福島ニットの中心地となっています。そのニットとともに梁川の特産となっているのが、「あんぽ柿」。 福島県の北部一帯は、果樹王国として知られますが、中でも梁川のあんぽ柿(干し柿)は、全国一の生産出荷量を誇っています。「甘い干し柿」が訛ったものと言われるあんぽ柿は、その名の通り甘露絶品。かつては年間2000トン近くが、県内を始め関東、関西方面へ出荷されていました。 しかし、福島第一原子力発電所事故直後の2011年度は、県庁による自粛要請で18トンに激減。その後、徐々に持ち直し、今では約1000トンまで回復して、途絶えていた輸出も、今年の1月から試験的に再開されています。 梁川の中でも、干し柿づくりが盛んなのが、 五十沢 地区(旧五十沢村)。五十沢は、梁川の中心部から阿武隈川を渡り、宮城方面へ向かった所にあります。この地方は、あんぽ柿の原料となる蜂屋柿の本場でもあります。大ぷりで見た目にもうまそうな柿ですが、あいにくと渋柿。そこで、これを干し柿にすることにしたのです。 干し柿というのは、昔からあったもので、『延喜式』(927年)にも、菓子類として挙げられています。五十沢での干し柿づくりも、かなり古くから行われていたようです。しかも、この地方の冷たく乾いた冬の気候は、干し柿づくりに適していました。 ただ、今日の「あんぽ柿」と言われる干し柿は、大正時代に始まったものです。普通の干し柿は、時間が経つと乾燥して、黒く堅くなり、更に糖分が白い粉となって表面に出て来ます。これに対してあんぽ柿は、羊羹のように柔らかく、半分生のようなジューシーな食感が特徴です。これは、あんぽ柿が、渋柿を硫黄で燻製状してから乾燥させる、独特の製法で作られるためです。 大正時代、隣村の佐藤福蔵さんが、カリフォルニアの干しぶどうづくりを目にしたのが、そもそものきっかけでした...

雄大で美しい景観を誇る石鎚山と面河渓

イメージ
小田深山 面河渓 に初めて行った時は、担当していた雑誌の写真コンテストによく応募されていた、松山在住のアマチュア写真家・菊野善之助さんに案内して頂きました。菊野さんは当時、コンクリート製品などを製造する㈱キクノの会長職にあり、週末はほとんど松山市内の写真仲間と撮影に出かけていました。石鎚山と面河渓は、そうした撮影スポットの一つで、特にお気に入りの場所だと話していました。 松山市内でレンタカーを借り、約束の地点で菊野さんをピックアップし、面河渓を目指しました。松山から面河までは、国道33号線で久万高原を抜け、御三戸交差点から石鎚方面へ入るルートと、久万高原から国の名勝・古岩屋を通るルートがあります。菊野さんのお勧めは古岩屋ルートで、松山からは約65kmの道程でした。 面河に入って、菊野さんがまず初めに案内してくれたのが、石鎚スカイラインでした。面河渓の入口となる関門から土小屋まで全長18km、約30分のドライブコースです。菊野さんによると、5月の新緑、10月の紅葉期が特にいいとのこと。 亀腹 途中には長尾展望台があり、石鎚山が眺められます。頂上から少し下った石鎚山の胸の辺りには、日本名湖百選の一つ御来光の滝が見えます。終点の土小屋周辺にはアケボノツツジの群落もあり、5月中旬、ピンクの花を咲かせ、新緑の石鎚山と、絶妙の取り合わせを見せてくれるそうです。土小屋は、石鎚への登山口ともなる場所で、シーズンには登山者やハイカーでにぎわいます。 愛媛県で「お山登り」といえば石鎚登山を意味するほど、石鎚山は愛媛を代表する山です。標高1982mは、西日本の最高峰。古くから山岳信仰の山として知られ、日本七霊山の一つにも数えられています。 土小屋から先は瓶ケ森まで、ブナ林の中を林道が走ります。石鎚山は年に300日は霧が発生すると言われ、ブナの巨木が霧の中に浮かぶさまは幻想的。5月から6月の新緑の頃には、霧が緑に染まり、ことのほか美しい景色を見せてくれます。 面河渓は、その石鎚山の森が造り出した渓谷。石鎚は全山森に覆われ、豊かな水を生みます。水は大地を流れ、長い年月をかけて谷を刻んできました。面河渓には「面河本流」と「鉄砲石川」という二つのルートがありますが、いずれの谷も樹海、断崖、滝、奇岩などが次々と現れ、自然の造...