「心の世界」を求めて、出羽三山を旅する
山形県の県章や県旗には、三つの山の形が描かれています。それらが象徴するように、山形には独特の山容を持った名山が多くあります。日本百名山に数えられる山だけでも、東の蔵王山、西の朝日岳、南の吾妻山、北の鳥海山と、県の東西南北を囲み、更には古くから信仰の山として知られる月山や、山形、福島、新潟の3県にまたがる大山塊・飯豊山が点在します。
ところで、松尾芭蕉は『おくの細道』の全行程156日のうち3割近い43日間を山形県で過ごしています。『おくのほそ道』の旅の目的は、みちのくの歌枕を訪ねて心の世界の展開を試みることだったと言われます。その中で、俳人で俳文学者の小澤實氏は、『おくのほそ道』にはいくつかの明確な目的地があるとしています。
「まず、挙げられるのは松島と象潟。これは西行に関わる歌枕の地です。もう一つは平泉。西行が二度訪れている地であり、芭蕉も好きだった源義経の最期の地でもあります」。芭蕉が旅立った1689(元禄2)年は西行の五百年忌に当たると共に、義経が平泉で最期を遂げた1189(文治5)年からちょうど500年後のことでした。そう考えると、うなづける説です。
その上で小澤氏は、「出羽三山」という聖地も大変思い入れのある場所だったと思います、と話しています。芭蕉は、出羽三山に6月3日(陽暦7月19日)から10日まで滞在。この間、5日の羽黒山を始め、8日に月山と湯殿山と、三霊山をくまなく踏破し、三山巡礼の句を短冊(山形美術館所蔵)に書き残しています。
涼風やほの三か月の羽黒山(『おくの細道』では「涼しさやほの三か月の羽黒山」)
雲の峯いくつ崩れて月の山
かたられぬゆどのにぬらす袂かな
そんな月山の姿を、森敦は、芥川賞を受賞した小説『月山』の中で、次のように描写しています。
「・・・月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連亙させて、臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を強く平野へ落としている」
山形の山々は、豊富な雪解け水を吐き出し、稲田を潤します。月山もまた同様で、庄内平野の人々には水を恵む「水分(みくまり)の山」「農耕の山」として信仰されてきました。しかし、この恵みは、長く厳しい冬が続くことの反対給付でもあります。冬の間、人々は家に閉じこもらざるを得ません。こうした生活は、人々を心の世界に向かわせます。山形に、信仰と結び付いた山が多いのは、こうした生活ぶりと無縁ではないはずです。
芭蕉も、そうした「心の世界」を求めて、出羽三山を訪れたのではないでしょうか
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