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利尻昆布を求めて洋上富士の島へ - 利尻島

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オタトマリ沼と利尻山 稚内取材の翌日、早朝のフェリーで利尻島へ渡りました。稚内港から利尻島の鴛泊(おしどまり)港まで約1時間40分。海から見る利尻島は、屋久島が洋上アルプスなら、こちらは洋上富士と言えるような、美しい姿を見せていました。 昨日のブログ にも書きましたが、稚内は年間の平均風速が7.5m、4日に一度は10m超の風が吹く「風の街」ですが、この日は穏やかな天気で、フェリーは揺れることなく鴛泊港へ着きました。 鴛泊は利尻島の玄関口で、港周辺には土産物屋やレンタカーが並んでいます。私は事前にネットでレンタカーを予約していましたが、同じ店で車を借りる人は、私の他におじいさんと孫夫婦、母娘2人連れがいました。そして3組一緒にシステムやお勧めコースなどの説明を聞きました。  母娘組は3時間のレンタルで、その後、礼文島へ渡るらしく、時間通りに車を返し、港へ行くことが最優先。そのため遅れることなく、この場に戻って来られるかを一番気にしていました。 稚内港を朝一番のハートランドフェリーで出発 現在、稚内から利尻島までのフェリーは1日3往復。第1便は6時45分発で鴛泊港着8時25分。時期によって、時間は異なりますが、我々が乗ってきたのはこの第1便です。そして、利尻島~礼文島間のフェリーは1日1往復出ています。利尻島からは現在、鴛泊港を12時15分に出て、礼文島の香深(かふか)港に13時に着く船になります。母娘組は、どうしてもこのフェリーに乗らないといけないわけです。 ただ、利尻島は海岸沿いの一本道を走って、1周60km弱。「道沿いにある、いくつかの観光スポットを見ても、3時間あれば十分戻って来られますよ。一本道だからナビも必要ないです」と、店員さん(たぶん奥さん)が説明されていました。それを聞いていた、孫夫婦と祖父、そして私もこの説明だけで十分納得してしまいました。 洋上富士と形容出来る美しい姿を見せる利尻島 そうは言っても、私の目的はちょっとマニアックな昆布の天日干しでした。私が稚内から利尻島へ渡ってきたのは、タコカレーを求めてではなく、「利尻昆布が砂浜いっぱいに干されてるの図」を求めてやって来たのです。 そこでまず、お勧めの観光地を素通りし、鴛泊からは島のちょうど裏側に当たる仙法志(

日本最北端・風の街 - 稚内

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稚内には羽田から1日1往復、夏は2往復の直行便が飛んでいます。午前中に羽田を出発する便は、昼過ぎに稚内空港へ降ります(今年は新型コロナウイルスの影響で、7月は羽田便はなく、8月も1日1往復らしいです)。 稚内空港は国内で1、2を争う欠航率の高い空港と言われます。その原因は、年間の平均風速が7.5m、10m以上になる日が年に90日という強風にあります。が、私はかなりの晴れ男なので、取材のため向かったこの日も普通に稚内空港へ降り立つことが出来ました。 取材は夜だったのですが、地元の方が空港まで迎えに来てくれ、時間まで市内をいろいろ案内してくださいました。最初に訪れたのは 宗谷岬 。言わずと知れた「日本最北端の地」です。 北緯45度31分22秒、現段階で日本人が到達出来る「日本最北端」がここです。岬の先端には「日本最北端の地」と書かれたモニュメントが建っています。 厳密に言うと、宗谷岬の西約1kmの沖合にある無人島・弁天島(北緯45度31分35秒)の方が北にあり、更に北方領土を入れれば択捉島のカモイワッカ岬(北緯45度33分28秒)が最北端ということになります。が、日本人が通常訪れることの出来る最北端は、紛れもなくこの宗谷岬ということになります。 宗谷岬の南には、標高20mから400mまでのなだらかな丘陵地帯・ 宗谷丘陵 が広がります。この丘陵は、2万年前の氷河期に、地盤の凍結と融解の繰り返しによって形成されたもので、こうした地形を周氷河地形と呼ぶそうです。宗谷丘陵は、明治時代に山火事によって樹木が消失。気温が低く強風が吹くため、現在も樹木が回復しておらず、樹木にさえぎられずに周氷河地形を確認出来る数少ない場所となっています。 この丘陵地帯はまた、日本最大級のウインドファームになっています。航空機を欠航させる原因ともなる強風に目を付けた稚内市によって事業がスタート。1998年に稚内風力発電研究所が2基の風力発電機を設置したのを皮切りに、次々と風車を増設。宗谷岬ウインドファームでは現在、57基の風力発電機が稼働し、稚内市の年間消費電力の約6割に相当する電力を発電しています。 更に宗谷丘陵以外にも風力発電の導入が進み、今では稚内市全体で84基、発電量にして約11万kwの風車が建設されています。そ

道祖神とわさびで知られる「早春賦」の里 - 安曇野

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「春は名のみの風の寒さや」で始まる唱歌「早春賦」は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授などを務めた文学者・吉丸一昌さんが、安曇野の風景を思い浮かべて作詞したものと言われます。吉丸さんは旧制長野県立大町中学(現在の大町高等学校)の校歌の作詞を、教え子の一人で、当時同校の唱歌教師だった島田頴治郎さんを通して依頼され、そのために大町を訪れた際、隣の穂高にも立ち寄っていたとの推測が、「早春賦」安曇野発祥説の元になっています。 が、吉丸さんが大町や穂高を訪れた記録は残っておらず、実際には校歌作詞のため島田さんから聞いた大町の風景をモチーフに「早春賦」の詞を書いたのでは、という説を唱える人もいます。ただ、島田さんが吉丸さんを訪ねて校歌を依頼したとする記録もないそうです。その上、吉丸家で長く家政婦を務めていた女性が、「先生が温泉旅行をした帰りに安曇野に立ち寄り、その時の感じを思い出しながら作詞されていました」と証言した、といった未確認情報などもあって、「早春賦」の背景は謎に包まれているようです。 そんなこともあって、「早春賦」の歌碑は現在、安曇野と大町の双方にあり関係者は互いに気遣い、特に声高に発祥の地をアピールしているわけではないようです。元々、安曇野というのは、犀川、穂高川、高瀬川が形成する扇状地周辺の呼び名で、範囲としては現在の安曇野市、大町市を始め、いくつかの市町村が含まれます。穂高町や豊科町などが合併して安曇野市という行政区分が出来たので、少しややこしいですが、「早春賦」は地名としての安曇野の風景と思えば、間違いないのかと・・・。 黒い遮光シートに覆われたわさび田 吉丸さんは1912年から「新作唱歌」全10集を編著、自作の75編の詞に新進作曲家による曲をつけて発表しました。作曲には、東京音楽学校出身の中田章さん(代表作「早春賦」)、梁田貞さん(代表作「どんぐりころころ」)、船橋栄吉さん(代表作「牧場の朝」)、弘田龍太郎さん(代表作「鯉のぼり」)といった新進気鋭の作曲家を起用。「早春賦」はその第3集に収録されました。 1911年から14年にかけて文部省が編纂した尋常小学校用の教科書「尋常小学唱歌」の作詞委員会代表を務めていましたが、文部省主導型による唱歌政策に疑問を抱き、それが「新作唱歌」に結び付いたようです。

霧が生み出すまろやかな味と香り - お茶の里・川根本町

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駿河路や花橘も茶の匂ひ(芭蕉) 元禄7(1694)年、芭蕉は江戸を発って東海道を京へ向かいます。その途中、「越すに越されぬ」と馬子唄に歌われた東海道随一の難所・大井川で、増水のため川留めにあってしまいます。結局、芭蕉は島田に4日間逗留し、その折に詠んだのがこの句でした。 芭蕉が旅をしたのは旧暦の5月中旬、現在の暦だと6月初め頃で、ちょうど白いタチバナの花が咲いていたのでしょう。タチバナはミカン科の常緑樹で、花は柑橘系の爽やかな香りがします。そのタチバナの香りでさえ、静岡の茶の匂いにはかなわないというような意味の句です。江戸期には、既に静岡が茶どころだということは広く知られていたことが分かります。 ちなみに、「旅行けば駿河の国に茶のかおり」は、広沢虎造の浪曲「清水次郎長伝」の出だしですが、これは芭蕉のこの句を下敷きにしたものです。ついでに、虎造の「石松代参」は「秋葉路や花橘も茶のかおり」で始まりますが、秋葉路は島田のお隣・掛川のことで、更に芭蕉の句に近い一節になっています。 このように、静岡と言えば、富士山と共にお茶を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。実際、畑から摘んだ葉を一次加工した荒茶の生産量では、静岡県が日本一で、最近落ちてきてはいるものの40%以上のシェアを持っています。 茶畑は県内の至る所に見られますが、中でも有名なのが大井川流域一帯で、量的には下流の牧の原周辺、質的には上流の川根周辺が有名です。茶樹の栽培は、平均気温が13度以上、年間雨量1400mm以上の温暖多雨の地が良いとされています。特に、川に面した排水の良い山間の傾斜地で、霧の巻く土地が最上と言われます。 大井川を上流に向かって旧川根町(現・島田市川根)、旧中川根町、旧本川根町(現在は2町合併により川根本町)と続く旧川根三町は、川沿いのため空気が湿気を含み、山脈に触れてしばしば霧が発生します。茶の葉に霧がかかると、日光がさえぎられ、甘みのもとタンニンがたくわえられ、葉にはしっとりとした柔らかみが出ます。こうした土地で作られたお茶は、鮮やかな濃緑色で香りが高く、味は甘くまろやかで、ほど良い苦みと渋みが爽快な感じを与えます。 旧川根三町でとれたお茶は、総称して川根茶と呼ばれ、天皇杯や農林大臣賞などを数多く受賞、日本

浅間山北麓、嬬恋高原キャベツ村物語 - 冬編

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昨日のブログ で、嬬恋村のアイススケートについて書きましたが、嬬恋村の冬はかなり寒いのです。1、2月の最低気温の平均は氷点下9度。最高気温でも0度前後で、日中の平均は氷点下5度近くになります。ちなみに、同じ時期の札幌の平均気温は氷点下3度、最低氷点下7度、最高0度なので、嬬恋の方が寒さが厳しいことになります。 雪山の歌というと、ダークダックスが歌う「 雪山讃歌 」が有名です(古いけど・・・)が、その歌詞が生まれたのは、冬の嬬恋村鹿沢温泉でのことでした。その歴史を振り返ってみましょう。 「雪山讃歌」はダークダックスのメンバーが、まだ慶應大学の学生だった1950年、長野県の志賀高原を訪れた時にこの歌と出会い、後にレコード化したものだそうです。レコードの発売は1958年、今年から年金をもらえるようになった私が、二人の孫(ほのちゃん、めいちゃん)と同じ3歳だった年のことです(笑。。。 彼らが志賀高原を訪れたのはスキーのためで、終点に到着した時、バスの車掌さんが切符を回収しながら口ずさんでいたのが、この曲だったそうです。ダークダックスのバリトン・ゲタさんこと喜早哲さんが、『 日本の美しい歌 』(新潮社刊)という著書の中でそう紹介しています。 この曲は、アメリカ民謡「いとしのクレメンタイン」(原題:Oh My Darling Clementine)に日本語の歌詞を当てたものでした。「いとしのクレメンタイン」は、1946年公開のアメリカ映画「 荒野の決闘 」(日本公開は1947年)の主題歌となったことで日本でも広く知られるようになりましたが、実は日本語の歌詞は、それよりずっと前の1927年に出来たものだそうです。 で、その作詞者として日本音楽著作権協会に登録されているのは西堀栄三郎さんで、1960年、歌詞の著作権が登録された時に添付された確認書には、次のように書かれていました。 「雑誌『文芸春秋』昭和35年5月号に掲載された酒戸弥二郎氏の『雪山讃歌の作者』に記載された事実は真実であります。  私は当時、京都帝国大学学生としてこの行に参加しておりましたが、昭和二年一月、吹雪にじこめられた鹿沢温泉の宿舎で西堀栄三郎氏が『雪山讃歌』を創作したことは上記酒戸氏の文章のとおりであり、爾後、旧三高山岳部部歌として歌われ

浅間山北麓、嬬恋高原キャベツ村物語 - 夏編

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Google Mapに「 嬬恋村広大なキャベツ畑 」というポイントがあります。嬬恋村は夏秋キャベツで首都圏の80%、日本全体でも約5割のシェアを持つ、日本一のキャベツ産地です。キャベツの作付面積は約3500ha。そのほとんどが村の南側、つまリ浅間山の北側の麓に集中しており、ここが「嬬恋村広大なキャベツ畑」というわけです。 この辺りは夏になると、それこそ一面、緑のジュータンを敷きつめたように広大なキャベツ畑が広がります。だいたい7月から10月中旬の3カ月半が嬬恋キャベツの出荷時期。この間、約21万t、1玉1.5kg換算で約1億4000万玉となりますから、日本の人口より多いキャベツが、嬬恋から全国に届けられていることになります。 嬬恋村、午前3時。丑三つ時は過ぎていますが、まだまだ草木も眠る時間です。真っ暗な中、農家の人たちがキャベツ畑へ向かいます。トラックやトラクターのヘッドライトが照らし出す畑の中で収穫作業がスタート。菜っ切リ包丁で、キャベツを芯から切リ離します。見る見るうちに、キャベツの列が出来上がっていきます。 この時期、嬬恋高原ではよく霧が発生します。取材に訪れた時も、深い霧に包まれた白い世界の中、どこで収穫しているのか全く分からず、途方に暮れたことを思い出します。車ではどうしようもなく、適当にアタリを付けて畑の近くに寄り、耳を澄ませると、サクッサクッという音が聞こえてきます。そちらの方向へ歩いて行っても、音は大きくなるものの、人の姿は一向に見えません。 嬬恋のキャベツは柔らかくてみずみずしいのが特徴とされていますが、これは嬬恋高原の霧と朝露のおかげだとも言われます。また、嬬恋村は標高700~1400mの高原地帯にあり、昼夜の寒暖差が大きいため、糖度が上がり、夏野菜特有の甘みを豊かに含んだキャベツに仕上がるのだそうです。 嬬恋でキャペツ栽培が始まったのは、明治の後期、自家用として作リ始めたのが最初だったようです。その後、昭和4年に有志による共同栽培が開始され、昭和8年頃から商品として作るようになりました。以後、どんどん栽培面積が広がり、それにつれて、村は裕福になりました。嬬恋村の村章にはキャベツを図案化したものが採用されていますが、こうした経緯を知ると、それも当然のことかもしれないですね。

上州名物空っ風と冬の風物詩・干し大根 - 笠懸町

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伝統的な干し大根の取材で、群馬県みどり市笠懸町を訪問した時のこと。 事前の打ち合わせの中で、笠懸町在住のある方が、取材全般の手配をしてくださることになっていました。そのため、まず最初にその方の所へ向かいました。何かのお店だったと記憶しているのですが、対面時のインパクトが強すぎて、その辺の記憶が飛んでいます。 取材当日、撮影担当のカメラマン氏が運転する車で笠懸へ向かいました。コーディネートを引き受けてくださった方の所はすぐに見つかり、打ち合わせをさせて頂こうと、店に向かいました。店内からは大きな声が聞こえていたのですが、何を言っているのかは分からず、そのまま中へ入ってごあいさつをしました。 しかし、中にいた二人の男女はそれには答えず、何やら口論をしています。夫婦喧嘩でしょうか・・・、どうやら絶妙なタイミングで、ばつの悪い場面に遭遇してしまったようです。やがて、ギャラリー側だった私たちにも「何しに来た」と矛先が向けられ、なぜか湯飲みか何かを足元に叩きつけられました。それを見た女性が、「早く帰って!」と、金切り声を上げます。その声にカメラマン氏と私は、何が何だか分からぬまま慌てて車に飛び乗り、店を離れました。 しばらく車を走らせたものの、行くあてがありません。そもそも取材のコーディネーターから追い返されてしまったのですから、取材そのものが大ピンチ。でも、取材をしないと誌面に穴が開きます。それはマズイ! とりあえず行政やJAなど、思いつく限りを回って相談し、取材を受け入れてくれる所を探しました。結果、加工などの撮影は難しいものの、干し大根に関する話だけならOK、そして大根を干す作業は翌朝に撮らせてもらえることになりました。  ◆ みどり市笠懸町は古くから干し大根の産地として知られます。上州名物と言われる冷たく乾いた空っ風が、干し大根に適していたからかもしれません。初冬になると、畑や屋敷の周囲に5段やぐらが組まれ、大量の大根が干されます。やぐら掛けという作業で、白い大根が赤城山を背景に干された眺めはまさに壮観。群馬県を代表する初冬の風物詩となっています。 みどり市は群馬県東部にあり、2006年、新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村が合併し、群馬県12番目の市として誕生しました。

唐揚げ一筋60年。日光杉並木近くの鶏からあげ専門店 - 味の大塩

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杉線香の取材で、日光市の今市に行ったことがあります。当時はまだ、水車小屋で杉の粉をつき、それを材料に線香を作っていました。 この時、かの有名な 日光杉並木 に近く、JR今市駅と東武線下今市駅の中間にあるホテルに泊まりました。ネットで検索したら、2015年にリニューアルオープンし、今は夕食もとれるようですが、その頃はホテル内での夕食はなく、外で食べるしかありませんでした。 で、イメージ的にJR側の方が飲食店がありそうな気がして、とりあえず今市駅方面へ向かって歩き始めました。すると、ものの2分もしないうちに、「味の大塩」という店を発見。が、ホテルから駅まで5分程度のはずなので、いったんやり過ごし、駅を目指して歩き続けました。 ただ、到着した駅前は明かりが乏しく、飲食店は見当たりませんでした。そこでUターンをして、最初に発見した「味の大塩」さんに入ることにしました。 席に着くなり店の人が、「うちは唐揚げ専門なんですけど」と、申し訳なさそうに一言。渡されたメニューを見ると、料理は確かに「鶏からあげ」と「鶏からあげ定食」の2品のみ。 でも私、唐揚げは好きな方だし、この取材で撮影を担当してくれた宇田川さん(現在は陶芸家兼林業家)も異論はないというので、二人とも鶏からあげ定食をオーダーしました。注文が入ると、店の方がお茶を出してくれ、一緒にお手ふきを二つ置いて行きました。当然、一つは宇田川さんのだと思い、渡そうとしたところ、あちらにも二つのお手ふきが・・・。ん? そういうシステムなのかな。ま、いっか。 というわけで、待つことおよそ15分。 出て来たのが、銀色の皿に鎮座まします立派な唐揚げ様。唐揚げは唐揚げでも、何と鶏の半身の唐揚げだったのです。まずはその偉容にテンションが上がります。箸で食べるなんざとても出来ないため、結果的に手で食べることになります。お手ふき二つの謎が解けました。 早速、かじりついてみると、お味の方も抜群。 決め手は秘伝のたれで、ベースにはさっぱりとした味が特徴のしょうゆを使っているのだそうです。そして、この自家製たれに漬け込んだ若鶏の肉をじっくり揚げます。そのため皮はパリパリ、肉はふっくら柔らかな中にも歯応えがあり、奥まで味が染み込んでいました。これを、銀の皿にこんもり盛られた

親子4代女子旅にお供するの巻 - 川治温泉

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川治温泉 に旅行したのは、3年前の6月でした。当初、家内の母を中心に義理の姉と姪2人、家内と娘、それに生後8カ月の孫娘の7人で行く女子旅のはずでした。 しかし、旅行の直前になって姪の一人の懐妊が分かり、まだ安定期に入っていないことから、女子旅から抜けることに。で、その代打として私が指名されました。女子旅プラスワン、プラスワンの私は運転手兼子守という役回りです。 義母は旅行が好きで、よく義姉と家内と一緒にあちこち旅をしていました。歴女に鉄子という義母は、特に列車で歴史的な土地を巡るのがお好みでした。近場の時は孫たち(うちの娘や姪たち)が同行させてもらうこともありました。そして、この年の川治旅行では、更に一世代増え、親子4代旅となったわけです。 川治温泉では、大正15年創業の老舗旅館「 湯けむりの里 柏屋 」さんにお世話になりました。川治は鬼怒川と男鹿川が合流する温泉郷で、柏屋さんはほぼその合流点にあり、部屋の目の前を男鹿川の清流が流れていました。また、トレインビューが魅力の温泉宿とも呼ばれ、部屋の窓から左手を見ると、鬼怒川にかかる高架橋を野岩鉄道会津鬼怒川線の列車が走る光景が見られました。 野岩鉄道会津鬼怒川線というと、土日祝日を中心に SL大樹 が運行します。運転区間は下今市駅と鬼怒川温泉駅の間だけなので、川治湯元駅までは来ていないのですが、もしこの橋をSLが走っていたら、特にSL大好き鉄子の義母は大興奮だったに違いありません。 川治温泉の開湯は江戸時代で、享保年間(1716年~1736年)に、男鹿川が氾濫した後、偶然に発見されたと言われます。その後、この地を通っていた会津西街道の宿場町として、また湯治場として栄えました。 会津西街道は、会津の若松城下から下野の今市を結ぶ街道ですが、それは関東側の呼び名で、会津側からは下野街道、あるいは南山通りなどと呼ばれていたそうです。江戸時代には、会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要な役割を担っていました。街道筋にある 大内宿 には今も茅葺き屋根の民家が軒を連ね、往時を偲ばせます。 そんな川治温泉では、お世話になった柏屋さんを始め、いくつかの旅館がリニューアルやリノベーションにより、現代にマッチした宿として、観

四季光彩 - 奥日光の自然美 その三

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このブログのきっかけとなったのは、撮り貯めた写真の整理でした。過去にさかのぼって、ポジフィルムで撮ったものもスキャニングしてみたところ、奥日光の写真が非常に多くあることに、改めて気付きました。それも季節のいい新緑や紅葉の写真だけではなく、雪や氷の写真もあります。 そもそも、1年を通して奥日光に通うようになったのは、カメラマン氏からの提案でした。「四季のさまざまな色合いを風景写真で表現してみたい」。そう彼が言ったのが、始まりです。ただ、自然が相手だけに、モタモタしていると、思った色に出くわさない危険性もあります。北海道とか沖縄とか、ちょいと行って撮影するというわけにはいきません。 そこで一計を案じたカメラマン氏は、地理に精通するためにも撮影は東京近郊の一箇所で行うこととし、地形に変化があり、四季の表情が豊かな場所ということで、奥日光を選んだのでした。私はそれに同行することになり、1回目は12月の初旬にロケハンを兼ねて訪問。その後は毎月1回、通うことになり、新雪に腰まで埋もれたり、 極寒の中ガタガタ震えながら日の出を撮影したり( その一 ) 、アカヤシオを目指して崖伝いに歩いたりと、なかなかどうしてハードな撮影行となりました。 でも、おかげでいろいろな表情の奥日光に出会うことが出来ました。今回は少し「四季光彩」の色に絞って、見ていきましょう。  ◆ まずは、奥日光に春の訪れを告げるアカヤシオから。 アカヤシオはヤシオツツジの一種で、東北南部から紀伊半島の岩山などに自生しており、栃木県の県花になっています。奥日光では、いろは坂、 明智平 、 半月山 などで多く見られ、だいたい4月下旬~5月上旬、つまりゴールデンウィーク中に見頃を迎えます。 カメラマン氏との撮影行では、明智平と半月山の両方で挑戦してみました。明智平の撮影では、崖伝いに移動してポイントを探していたのですが、この時、カメラマン氏はだいぶ危険な状態にあったようです。後に、彼が書いたエッセーに、次のような記述がありました。 「背負ったカメラ・ザックが、木の枝につかえて、先ほどから体の方向転換に四苦八苦している。スタンスが悪い。立っているのは、10cm四方しかない三角錐の突起部なのだ。崖の下は、垂直に落ちている。間違っても右方向には転落出来ない。 編集氏はどうした、どこにいるのだろう。助けを求め