かんざし買った竹林寺の坊さんと、がっかり名所の播磨屋橋
高知の播磨屋橋は、がっかりな観光地として有名です。「日本三大がっかり名所」の一つにもなっています。でも、がっかりだったのは、昔のことでは?と思う私です。
ちょっと話が古くなりますが、1601(慶長6)年、土佐に入国した山内一豊は、大高坂山に城を築くことにし、山の南を流れる鏡川と北の江ノ口川を外堀として利用、二つの川に挟まれた三角州に城下町を建設しました。そして03年、本丸などが竣工、山の名を河中山に改めました。
しかし、外堀代わりにしたのは天然の川だったので、治水に苦慮。そのため、2代藩主忠義は、城のある河中山の地名を嫌い、10年には山の名を再び改名します。この時、忠義の命を受けて名前を考えた竹林寺の空鏡上人は、高智山と命名。これが、高知の由来となりました。
昭和33年の播磨屋橋 |
やがて、城下町には堀川が網の目のように張り巡らされ、水の都とも言えるような町に変貌します。そして、通りの連絡を良くするため、堀川にはいくつも橋が架けられるようになりました。その一つが、播磨屋橋です。これは、堀川を挟んで商売をしていた「播磨屋」と「櫃屋(ひつや)」が、両店の往来のために自費で設けた橋でした。
その播磨屋橋が、なぜがっかり名所になったかと言うと、それは播磨屋橋の知名度が高かったからです。土佐の代表的民謡「よさこい節」に、この橋の名前が出て来ます。「♪土佐の高知の播磨屋橋で 坊さん かんざし買うを見た」。しかも、この部分が、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」(1959年)の中に歌い込まれ、更に有名になりました。
そんな播磨屋橋ですが、1960年代になって堀川が埋め立てられ、橋の必要がなくなり、1958(昭和33)年に歩道と車道の間に設置された朱塗りの欄干だけが残りました。そんなわけで、有名な播磨屋橋を訪れてみたら、川はなく、赤いガードレールみたいなものが付いてるだけということになり、がっかり名所にランクインしたわけです。ペギー葉山のヒット曲を映画化した『南國土佐を後にして』(小林旭主演)に、この赤いガードレールみたいな播磨屋橋が出てくるので、興味のある方は、ご覧になってください。
その後、1998(平成9)年に、朱色の欄干(ガードレール)は、1950(昭和25)年に造られた橋を模して石造りの欄干にリニューアル。すぐ側に、赤い太鼓橋を設置した、「はりまや橋公園」を整備し、橋の下には人工水路を作りました。これをもって、「赤いガードレール」は卒業したので、「日本三大がっかり名所」も卒業していいのでは、と思うのですが・・・。
さて、播磨屋橋でかんざしを買った坊さんですが、この人、実は竹林寺の脇坊・南の坊の修行僧・純信さんでした。純信さんがかんざしを買った相手というのは、城下にあった鋳掛屋の娘お馬さんでした。お馬さん、洗濯物を預かったり届けたりするため、寺に出入りしていました。そして、何度か顔を合わせるうち、二人は惹かれあうようになり、ついには駆け落ちを選択します。純信さん37歳、お馬さん17歳の年の差カップルだったそうです。
二人は、阿波を経て、讃岐・琴平の旅籠に宿を取りました。しかし、そこを踏み込まれ、関所破りで捕えられてしまいます。そして、1855(安政2)年9月、城下の晒し場で面晒しの刑を受け、それぞれ別の場所に追放されてしまいました。その純信さんが修業をしていた竹林寺は、高知市南東部の五台山にある真言宗智山派の寺で、四国霊場第31番札所になっています。724(神亀元)年、聖武天皇から、中国・五台山に似た霊地を見つけるよう命じられた東大寺の僧・行基上人が、この地を選び、山上に本堂を建て文殊菩薩像を安置したのが、起源とされます。また、大同年間(806 - 810)には、弘法大師がここに滞在して修行し、霊場にされたといいます。その後、戦国期に荒廃し、それを再興したのが、高智山の命名者・空鏡上人でした。
「文殊堂」と呼ばれる本堂は、江戸前期の建立で国の重要文化財になっており、夢窓国師の作と伝えられる庭園は、国の名勝に指定されています。また、宝物館には国の重要文化財に指定されている仏像17体が収蔵されています。
竹林寺の周辺は、五台山公園になっており、展望台からは高知市街や浦戸湾、高知平野を見渡すことが出来ます。高知県出身の世界的植物学者・牧野富太郎博士の業績を顕彰するため開設された、高知県立牧野植物園や牧野富太郎記念館もあるので、牧野富太郎フリーク必見の地となっています。
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