北原白秋の古里「水郷柳川」をどんこ船で下る

「水郷柳川」として知られる柳川市は、福岡県南部、九州一の大河・筑後川が、有明海へ流れ込む河口に開けた町です。有名な有明海の干潟は、筑後川によって運ばれてきた大量の土砂や阿蘇の火山灰など、微細な土によって形成されました。現在でも、筑後川河口付近では、1年間に約10mの割合で、干潟が成長していると言われています。 

こうした自然の営みに、柳川の人たちはうまく調和し、干潟に掘割を切って排水を促し、掘った土を盛って陸地化してきました。しかも堀割は、干拓事業のための水路として、灌瀧用水路として利用するだけではなく、立花氏12万石の城下町として、城を防御する城堀の役割を果たしていました。

柳川には、中心部の2km四方だけで、60kmもの水路が張り巡らされています。柳川市全体で見ると、水路の総延長は930kmにもなるそうで、柳川の水路面積は、道路面積をしのいでいるといいます。まさに「水郷柳川」と呼ぷにふさわしい状態です。

柳川を「水郷」と呼んだのは、北原白秋でした。白秋(本名隆吉)は、1885(明治18)年、沖端村(現・柳川市沖端町)の造酒屋・北原家の長男として生まれました。白秋が生まれた明治時代には、掘割は城を守る役割を失い、人々の暮らしの場としての性質が強まっていました。


掘割に面する家々では小舟を持ち、掘割を移動手段として使っていました。また、農村から川船で野菜を売りに来たり、有明海に面する熊本や長崎、佐賀など他県からの物品が、柳川で川舟に積み換えられ運ばれたりして、舟運も発達しました。また、炊事・洗濯などにも、掘割の水が使われ、人々の日常生活と水路が密接につながるようになっていました。

そんな時代に生まれ、高校まで柳川で暮らした白秋は、写真家田中善徳との共著である水郷柳川の写真集『水の構図』の中で、古里柳川について、次のように書いています。

「水郷柳河こそは、我が生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である。この水の構図この地相にして、はじめて我が体は生じ、我が風は成った。・・・」

地元の中学伝習館に進んだ隆吉少年は、「白秋」という号で短歌を作り始めます。しかし、教師との対立から中学を中退、早稲田大学英文科予科に進みます。その後、与謝野鉄幹に誘われ『明星』に参加し、学業の傍ら詩作に励みます。そして、1909(明治42)年に処女詩集「邪宗門」を発表します。

更に1918(大正7)年、日本初の児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、白秋も童謡の部門でこれに参加します。詩人白秋の才能は、童謡作家としても大きく開花。「ゆりかごのうた」「あめふり」「赤い鳥小鳥」「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」「からたちの花」など、聞けば誰もが、子どもの頃の記憶と共に思い出す、数々の名曲を発表しました。

ちなみに、『水の構図』は1943(昭和18)年1月に刊行されましたが、白秋はそれを待たず、42年11月2日にこの世を去りました。享年57。『水の構図』が、白秋の遺稿となりました。


白秋の生家は、白壁、土蔵造りの母屋が昔のままの姿で保存され、白秋に関する諸資料が展示されています。白秋が生まれた沖端は、有明海有数の魚港があり、ムツゴロウ、ハゼクチ、ワラスポ、クツゾコ、メカジャなど、干潟に生息する魚貝類が水揚げされます。


白秋が、「我が詩歌の母体」とした水郷柳川の風景は、国の名勝に指定されています。そして、市街地を縦横に走る水路にどんこ舟を浮かべ、船頭さんの歌を聞きながら、ゆったりと流れる時間を楽しむ川下りは、柳川旅情のハイライト。舟下りの後は、柳川名物ウナギのせいろ蒸しに舌鼓をうっても、また有明海の珍魚の味を楽しんでもいいでしょう。

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