市民の手により観光名所となった太平山あじさい坂

巴波川沿いの土蔵群

栃木市は江戸時代、日光例幣使街道の宿場駅として、また巴波川の水運を利用した問屋町としても栄えました。明治維新後、廃藩置県によって県庁が置かれ、栃木県の政治、経済の中心地として繁栄しましたが、その後、県庁は宇都宮に移転。それでも、商業都市としての活気は維持し、北関東の商都と呼ばれました。

巴波川の岸辺には、今もかつての材木問屋や麻問屋の蔵が軒を連ね、当時の繁栄ぶりをしのばせています。これらの蔵は、時代の変化の中で本来の役割を終え、「蔵の街・栃木」のシンボルとして、一般公開されています。

その一つ、木材回漕問屋だった旧家の蔵を活用し、観光施設にした「塚田歴史伝説館」には、「三味線おばあさん」というハイテクロボットがいました。三味線を弾きながら、語り部となって当時の暮らしなどを説明してくれるんですが、手前のおじさんのリアルさが不気味で、内容がなかなか頭に入ってきませんでした。

太平山あじさい坂

そんな栃木市に、約1200年の歴史を持つ太平山神社があります。827年、慈覚大師により創建されたと言われ、江戸時代には徳川家の信仰があつく、社運が大いに隆盛。というのも、第4代将軍徳川家綱の生母・宝樹院が、太平山の麓の出身で、太平山神社を崇敬していたためだそうです。本殿は、栃木市南部の太平山頂(標高341m)に立ち、約1000段の石段が続く表参道は「あじさい坂」と呼ばれています。

名前の由来となった約3000株のあじさいは、50年近く前の1974年に、栃木ライオンズクラブによって植えられたものです。その年、結成5周年を迎えた同クラブが、記念事業として植樹したのが始まりです。

クラブではその後も、補植や手入れなどを継続。最初の植樹から3年後の77年にクラブに入会した水沼敬司さんによると、当時の参道はまだ石段になっておらず、急坂での作業はかなり大変だったそうです。

「一時は人の背丈ほども伸びて、あじさいのトンネルのようになったこともあります。しかし、あまりにも伸び過ぎたため観光協会が剪定したところ、翌年は花が咲かず、がっかりした記憶があります」(水沼さん)

太平山あじさい坂

太平山あじさい坂

もちろんそれ以降は、そんなことはなくなり、観光協会も本腰を入れてあじさい坂の手入れに参画。栃木ライオンズクラブが毎年実施している除草や施肥の奉仕活動とは別に、栃木農業高校や栃木特別支援学校の生徒など、今では多くの市民ボランティアが、あじさいの剪定作業に協力しています。

大平山あじさい坂
市民による、こうした長年の丹精込めた手入れのおかげで、大平山のあじさい坂は、今や観光名所となっています。6月の花期には、あじさい祭りも開かれ、県外から観光バスがやって来るほどになりました。

「あじさい坂」の標識がある参道入口から頂上の太平山神社までは約480m。花を愛でながら、山頂まで約1000段の階段坂をのんびり上っても、30分あれば十分でしょう。あじさいの見頃は6月下旬から7月上旬です。

山頂にある太平山神社の主祭神は瓊瓊杵命・天照皇大御神・豊受姫大神ですが、大平山全体では42社60余の神々を祭っており、「全ての神々この山に有り全ての御神徳この山より始まる」とまで言われています。このうち、特に参拝が多いのは、猿田彦命を祭る交通安全神社と、日本武尊を祭る足尾神社だそうで、足尾神社は、古くから足腰の健康祈願のお参りが絶えないとのことです。

この太平山は、戦国時代に小田原北条氏と上杉謙信の合戦の舞台となった場所で、山の中腹には謙信がその眺望に感嘆したという謙信平があります。晴れた日には、富士山や東京の高層ビルも見え、「陸の松島」とも呼ばれます。

山頂の売店には太平山名物の団子・玉子焼き・焼き鳥の太平山セットがあり、それもまた太平山歩きの楽しみの一つになっています。で、地元の方に聞いたのですが、この大平山セットは、昔、飼っていた鶏が野生化し、増えすぎたために考え出されたメニューだというのです。ホントでしょうか・・・。

太平山名物の団子

太平山名物の玉子焼き

太平山名物の焼き鳥



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