醤油醸造や讃岐三白の積出港として栄えた引田の町

かめびし屋
東かがわ市引田(ひけた)は、半島によって風がさえぎられ、平安時代から天然の良港として知られていました。中世には、引田城が築かれて商業が発展、城下は物資の集散地として賑わいました。標高86mの城山にある引田城は、播磨灘に面しており、山城でありながら、三方を海に囲まれた海城でもあり、天然の要害となっていました。

引田は、1584(天正12)年、阿波に次いで讃岐も平定した長宗我部元親の領地となりますが、翌85年、羽柴秀吉の四国攻めで長宗我部氏が敗退。87年に生駒親正が、讃岐国を与えられて引田城へ入城しました。しかし、引田城は、讃岐国の東端にあったため、生駒氏は間もなく中央寄りの聖通寺城に移ります。更に本拠の場所を黒田官兵衛に相談し、88年から高松で築城を開始。城は90年に完成し、97年からは丸亀城の造営に取り掛かっています。

その後、1600(慶長5年)の関ケ原の戦いで、生駒氏は東軍に加担。江戸時代も領地を安堵されましたが、一国一城令により引田城は廃城となりました。ちなみに丸亀城は、樹木で覆い隠し破却を免れたそうです。

1640(寛永17)年のお家騒動後、讃岐は分割され、41年に西讃に山崎氏が入り丸亀藩が興り、東讃には42年、御三家の水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男・松平頼重が入って、高松藩が成立しました。この高松藩5代藩主の松平頼恭は、質素倹約に努め、藩の財政再建を図ると共に、藩の収入を上げるためさまざまな策を実行。塩田の開発で塩の増産を図ると共に、本草学を学んでいた家臣の平賀源内に、薬草や砂糖の栽培・研究を命じました。


源内は、薬草園の仕事をしながら、砂糖栽培を研究。しかし、砂糖製造の完成を待たず、職を辞して江戸へ出てしまいます。後継の藩医・池田玄丈も、志半ばで世を去り、後を託した弟子の向山周慶が、砂糖の精製に成功します。その成功には、次のような逸話があったといいます。

江戸後期の1790年頃、薩摩の奄美大島出身の関良介という人が、四国遍路に訪れました。しかし、体調を崩して、讃岐国大内郡(現在の東かがわ市)辺りで行き倒れてしまいます。それを助けたのが、藩医で大内郡湊村出身の向山周慶でした。関さんはそれを恩義に感じ、既に砂糖を生産していた薩摩藩秘伝の砂糖製法を周慶に伝授。周慶はついに、上等の白砂糖の製造に成功しました。「讃岐の白糖」は、「本邦第一の白糖」と言われるほどになり、天保年間初期(1830年代初め)には、大坂の市場で高松藩産の砂糖が5割を占め、白砂糖の代表的産地となりました。


東かがわ市には、四国八十八所の霊場はないのですが、1番札所霊山寺(徳島県鳴門市)と88番札所大窪寺(香川県さぬき市)のほぼ中間にあります。1番から巡礼する「順打ち」にしろ、88番から巡る「逆打ち」にしろ、また88番で結願となっても、逆に1番で結願となっても、引田はかなり便利な土地なのです。しかも、引田の港は大坂にも近く、江戸時代には醤油や「讃岐三白(塩、砂糖、綿花)」などの積出港として栄えていました。そう考えると、関さん、引田港から四国巡礼を始めたのかもしれません。

で、東かがわ市では、周慶以来の伝統を継いで、高級砂糖「和三盆」の製造が盛んです。1802(文化元)年、製糖許可を求める高松藩への文書には、5軒の庄屋が名を連ねましたが、現存するのはそのうちの1軒のみ。それが、東かがわ市にある三谷製糖です。

かめびし屋

また、引田は、江戸時代から醤油の醸造が盛んで、引田醤油の名を全国に広めた「引田御三家」と呼ばれる3軒の醸造所がありました。現在も、そのうちの一つ「かめびし屋」が残り、1753(宝暦3)年創業以来の「むしろ麹法」を守り続ける日本唯一の蔵元として知られています。

かめびし屋は、赤壁で有名な醤油屋さんで、とてもフォトジェニックな外観を持っています。また、蔵の一つを改装した「かめびし茶屋」では、自家製讃岐うどんを始め、しょうゆ焼きおにぎりやみたらし団子など、かめびし醤油を使ったメニューが用意されています。

かめびし屋


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