朝霧たなびく山間の盆地に豊後左官職人の技を見る

大分県北部、2005年に宇佐市、院内町と新設合併し、宇佐市の一地域となった安心院町。太古の昔、この地は湖でした。陸化して芦の原となり、芦生(あしう)と呼ばれ、これが転じて「あじむ」になったとされます。いつしか湖底は安心院盆地を形成し、肥沃な穀倉地帯となりました。

この安心院盆地は、春と秋になると深い底霧に包まれます。松本清張が「墨絵のような美しい景色」、司馬遼太郎が「日本一の盆地の風景」と絶賛した幻想的な光景が展開します。昼夜の気温差が大きく、雨が少ないことから果実栽培が盛んで、ブドウは西日本の一大産地として知られます。また、近年はそのブドウを使った安心院のワインが、世界最大のワインコンペティションでアジア最高位の評価を獲得するなど、大きな注目を集めています。

この安心院に「鏝絵(こてえ)」と呼ばれるものがあります。土蔵造りの母家や蔵の壁面(多くは妻下や戸袋)に漆喰をレリーフ状に描いた装飾芸術を言います。これらは、家主の依頼によって土地の左官職人たちが鏝の技を振るったものですが、それぞれに家主と左官職人の意気込みがうかがわれ、誇らしげな職人の声が聞こえてきそうです。

図柄は長寿、立身出世、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全など家運隆盛の祈りが込められたもので、恵比寿、大黒、竜虎、鶴亀などさまざま。現存する鐙絵の多くは、かつて地主、豪農、酒屋、旅館、呉服屋であった家が多く、それぞれの家が左官職の技に期待を込めて競ったようにも見えます。

時代を経ているにしては色彩も鮮やかで風化の程度も良好なのは、手抜きのない職人気質によって制作されているからでしょう。彩色は表面彩色ではなく、漆喰に赤はベンガラ、藍はキンベル、浅黄はキンベルに牡蠣灰、鼠は灰墨を混入するなど、職人独自のさまざまな工夫が試みられています。これらの作品は主に江戸末期から明治・大正時代に制作されたものが多いのですが、幕末から明治中期頃までのものに秀作が多いということです。

鏝絵の残存はここ安心院町に限ったものではありません。全国各地にありますが、その多くは大分県にあり、現在、約700カ所と言われています。特に国東半島の付け根辺り一帯、院内、日出町、山香(杵築市)などに見られますが、何と言っても安心院が最も多く、その数、100カ所近くに及んでいます(そのうち50カ所は見学可)。

が、意外なことに地元では少し前まで鰻絵にあまり関心は示されなかったようです。余りにも身近な存在でありすぎたためでしょうか。それでも、歴史的な民衆芸術としての価値に気づいた旧安心院町は、全国に先駆けて保存運動に取り組み、1996(平成8)年には「大分の鏝絵習俗」として国の無形民俗文化財になりました。


作られたものはいつしか消えゆく運命にあります。明治気質の左官職人たちが、あくまで余技としてではありますが、誇りを持って取り組んだ鰻技を見る時、我々が今日忘れかけている大切な何ものかを語りかけているようにも思われます。

時代の波は生活様式を変え、建築様式を変え、そして人の心をも変えました。が、安心院の町は昔日に変わることなく朝霞に包まれています。

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