合掌造りが教える、生きるための知恵


岐阜県の北西部から富山県に接する山間は、国内でも有数の豪雪地帯です。白川村のある一帯は、1893(明治26)年に村を南北に通る白川街道(国道156号)が開通するまでは、人々の往来も珍しいような静かな山村でした。昔から、養蚕とわずかな農地を利用した自給自足の生活が営まれていましたが、開墾出来る土地が少ないせいもあり、一家に兄弟が生まれても土地を与えて分家させることが出来ません。そのため同じ屋根の下に一族が同居する大家族制度が、明治末頃まで続けられ、大家族が暮らすに足りる茅葺き屋根の大きな家屋が建てられました。

1935(昭和10)年、ドイツの建築学者ブルーノ・タウトが、この「合掌造り」と呼ばれる茅葺き屋根の建物を調査するため白川郷を訪れます。合掌造りの集落を目にしたタウトは「極めて論理的かつ合理的で、日本のどの地域でも見られない民家の形」と考え、日本の建築では京都の桂離宮と共に、白川の合掌造りを高く評価。その後、彼の著書によって白川郷は広く紹介され、一躍世界の注目を集めるようになったのです。


合掌造リは、正確には美濃の山奥から発して、荘川村(現・高山市)、白川村、五箇山地方を経て砺波平野から日本海へ注ぐ庄川の流域に分布する民家群を言います。この合掌造リの形態の周辺にはいつも、平家の落人伝説、大家族制度、妻問婚などの一連の古い習俗がまとわりついていて、それが人々に日本のふるさとを感じさせる遠因ともなっています。

合掌造りの特徴は、木材を梁の上に手の平を合わせたように三角形に組み合わせた、勾配の急な茅葺き屋根にあります。勾配のついた屋根は強風に吹かれたり大雪が積もっても決して倒れることはありません。建物は南北に面して建てられていますが、これは時に40mを超える強い風が吹く白川の自然を考慮したためで、風の抵抗を最小限にすると共に、屋根に当たる日照量を調節して、夏は涼しく冬は保温されるように工夫されています。

また、建物内部が何層にも分けられているのは、養蚕に利用するためのスペースをとる工夫から生まれました。三角の大屋根部分は、大家族の居住室ではありません。合掌造りでは、まずその平面積が中規模でも約80坪、家族構成員は平均して20人から25人で、大部分が1階または中2階に住んでいました。実は三角形の部分は、ほとんどがスノコ敷の多層室になっており、それが養蚕のためのスペースでした。

居住室と上層部との区別は建築方式にも明確に現われています。この4〜5階建のビルに匹敵する建築は、まず柱と梁の1階部分が、外部から頼んだ専門の大工によって組み立てられます。それが終わると合掌の部分が、一族と村中からの助っ人によって造られます。部材は大小の丸太、結合はカズラか縄、全て素人の手で組まれるのです。巨大な屋根の茅葺きも、1日か2日、100人を超すことも少くない素人による人海戦術で行われます。

精度を要する居住部分は専門の大工たちに、そして仕事のスペースは素人の共同作業でという、このような建設方式は、いかにも現金収入が乏しい山村の生活の知恵を思わせる合理的なものと言えるでしょう。

約150戸ほどの集落がある荻地区は、76(昭和51)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。また95年(平成7)年12月には、ドイツ・ベルリンで開催されたユネスコの第19回世界遺産委員会で、富山県の五箇山合掌造り集落と共に、世界遺産に登録されました。国内では、姫路城、白神山地などに次いで6件目の世界遺産。長年にわたって保存に取り組んできた住民の努力が評価の対象となりました。

が、後世の研究者から「悲劇の民家形態」と称された合掌造りの大家族空間も、1873(明治6)年の「徴兵令」をきっかけに崩壊への道を歩むことになります。兵役に従事した若者の中には配属先で町の生活を知り、除隊後に村を出る者も出始めたのです。そして、かつては白川村周辺のほとんどの集落で見ることの出来た合掌造りの美しい茅葺き屋根も、今では荻町を含む三つの集落だけとなっています。

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