三隈川の清流に歴史の影を映して
ただ、山の中には違いないのですが、実際に日田の町を歩いてみると「水」のイメージが強くなります。市の中心を流れる三隈川は、周辺の山々の水を集める花月川、大山川、玖珠川と日田盆地で合流し、福岡県に入って筑後川と名を変えて有明海へと注ぎます。いわば九州最大の河川である筑後川の水源地帯と言える場所なのです。流れる水は清く、まさに山紫水明の地というにふさわしく、「水郷日田(すいきょうひた)」の呼称があるのもこうした水に恵まれた自然環境によるものです。
1961(昭和36)年には温泉の掘削に成功、日田温泉郷も出来、多くの観光客を集めています。私が日田に行ったのは20年ほど前のことになります。この時の取材は、独り暮らしのお年寄りに温泉のお湯を宅配するボランティアの活動でした。宅配するお湯は、日田簡易保険保養センターから無償で分けてもらっていましたが、湯温が70度もあり、それを地元の良質の井戸水とブレンドし、適温にしてから各家庭を回っていました。お年寄り宅では「温泉の香りがして気持ち良かった」「もったいないので3回も沸かし直して入った」などと大喜びでした。
また、日田は「九州の小京都」とも称されます。江戸時代には幕府直轄地として、九州の政治、経済の中心的役割を果たしました。当時育まれた独特の文化が今なお息づき、天領時代の面影を残す家並が美しい町です。そんな日田を代表する人物と言えば、幕末の儒学者、漢詩人、教育家として知られる廣瀬淡窓です。淡窓は1805(文化2)年、24歳の時に豆田町の長福寺を借リて、「咸宜園」の前身となる塾を開きます。淡窓は詩作によって全国にその名が知られ、一代で4000人を超す好学の若者たちが師を慕って集まりました。そして1817(文化14)年、現在地に咸宜園を開塾。咸宜園から巣立った門下生には大村益次郎、高野長英、大隈言道、長三洲らの英才がいます。
ちなみに「咸宜」とはコトゴトクヨロシの意で、身分、年齢、学歴、男女を問わず門戸が開かれ、子弟が起居を共にしながら勉学に励みました。淡窓の漢詩「桂林荘雑詠示鰭生」に、その様子がうかがえます。※桂林荘は咸宜園の前の塾舎
休道他郷多苦辛 同袍有友自相親 柴扉暁出霜如雪 君汲川流我拾薪
=道(い)ふことを休(や)めよ他郷苦辛多しと 同袍友有り自ずから相親しむ 柴扉(さいひ)暁に出ずれば霜雪の如し 君は川流を汲め我は薪を拾わん(他郷で勉学に励むのは、苦しいこと、つらいことが多いと言うのはやめなさい。綿入れを貸し借りするような仲間もでき、自然と仲良くなれるのだから。明け方に柴の折戸を開けて外に出てみると、霜が雪のように降りている。さあ、君は川に行って水を汲んできてくれ。僕は山でたきぎを拾ってくるから)
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咸宜園跡(秋風庵) |
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